治療薬がなかった時代、認知症は「どうしようもないもの」として恐れられていました。
この記事では、精神科病院での扱いや家庭での介護、ロボトミーや電気ショックといった過酷な現実を見つめます。
治療薬のなかった時代:ケアが中心だった頃の実態
薬が存在しなかった時代、認知症の人々はどのように扱われていたのでしょうか。
20世紀の大半を通じて、認知症に対しては有効な薬物治療がなく、介護・ケアが中心でした。
記憶障害や奇行が目立つ高齢者は、家庭で家族が世話を焼くか、症状が重ければ精神科病院や老人ホームに入所するのが一般的でした。
特に中核症状(記憶や判断力の低下)よりも、徘徊や興奮といった周辺症状への対処が難しく、施設では身体拘束(例:拘束衣や鎖)や隔離が行われることも珍しくありませんでした。
19世紀以前の劣悪な「疯人院」と呼ばれた収容施設では、鎖に繋がれ粗末な扱いを受ける患者も多かったと記録されています。
また当時は認知症が「不治の狂気」とみなされていたため、家族にとっても世間体を憂い自宅に隠すケースが多く、社会から見えにくい存在でした。
実際、ヴィクトリア朝時代の英国では「家族が恥を感じ、認知症の親を世間から隠すために施設へ入れた」という記述も残っています。
20世紀前半になると、医学の発達に伴い**「治療」の名の下に行われた過酷な介入**も歴史に刻まれました。
たとえば、電気ショック療法や前頭葉ロボトミー(脳外科手術)など、現在では考えられないような荒療治が認知症患者に試みられたこともあります。
これらは当然ながら根本的な治療にはならず、むしろ深刻な副作用や人格の喪失を招くものでした。
それでも有効策が他に無かった時代、人々は藁にもすがる思いでこうした「治療」に頼ったのです。
1950年代頃まではこうした古典的かつ非人道的な手法が続いていたと報告されています。
しかし同時に、18~19世紀のピネルやウィリアム・テュークによる「道徳的治療」の思想を継ぐ形で、患者を人間らしく待遇し穏やかな環境で世話をする先駆的な試みも始まっていました。
例えば1796年設立の英ヨークのリトリートでは鎖や拘束を用いず、園芸や手工芸、動物の世話といった活動を通じて穏やかな生活を営ませていたと伝えられています。
戦後になると精神科薬の出現が状況を一変させます。
1950年代にクロルプロマジン(抗精神病薬)が登場すると、幻覚や妄想を抑える薬として精神科病院で広く使われるようになりました。
認知症自体を治す薬ではありませんが、興奮や攻撃性の強い高齢患者に対しても「鎮静剤」代わりに抗精神病薬が投与されるケースが増えました。
これにより施設での身体拘束が多少減少する一方、副作用で朦朧とした状態になる「薬漬け」も社会問題化しました。
結局、1990年代前半になるまで認知症の中核症状(記憶障害や認知機能低下)に効果を示す承認薬は存在しなかったのです。
実際、米国FDAがアルツハイマー型認知症の記憶障害を改善する初の薬(タクリン)を承認したのは1993年であり、それ以前は「認知症治療薬ゼロの時代」でした。
こうした背景の中、ケア現場では創意工夫が重ねられてきました。
薬がなくとも「寄り添い」「現実志向訓練」「回想法」などの非薬物的アプローチで症状の進行を和らげようとする試みがなされました。
また、家族介護者同士が知恵を共有する場として自助グループや介護教室も各地で生まれました。
1980年代にはアメリカでアルツハイマー協会が設立され、日本でも1986年に「呆け老人をかかえる家族の会」(現:認知症の人と家族の会)が発足するなど、ケアに関する情報発信や社会支援の動きが活発化していきます。
つまり治療薬のなかった時代、認知症ケアの主役は家族と介護者であり、その献身的な支えが患者の生活を支えていたのです。
希望はどこからもたらされたのか?
次回は、初めて“中核症状”に挑む薬が誕生したコリン仮説と、ドネペジル開発の物語をお届けします。
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