序章:抗菌薬の幕開けと“自然との共演”
かつて人類は、細菌感染症の猛威に為す術がありませんでした。抗菌薬が登場する以前は、紙で指を切った程度の小さな傷や出産でさえ、細菌による感染が命取りになることがあったのです 。古代エジプトでは、傷口の感染にカビの生えたパンを貼るという民間療法が行われていました 。実は細菌やカビ(真菌)は自然界で互いに戦う化学物質を作り出しており、知らず知らずのうちにそれを利用していたわけです。この「自然が生み出す奇跡」に、人類の知恵が結集した時代が訪れます。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、「魔法の弾丸」と称して細菌だけを狙って殺す薬の研究が進みました。ドイツのエールリヒによる梅毒治療薬サルバルサン(1910年)や、ドーマクによる世界初の化学療法剤プロントジル(1935年)といった合成抗菌薬も現れました。しかし、それでも多くの細菌感染症は依然治療不能だったのです。
そんな中、決定的な転機が訪れました。1928年9月、ロンドンの細菌学者アレクサンダー・フレミングが培養中のブドウ球菌のシャーレをうっかり放置したところ、偶然生えてきた青カビが細菌の増殖を抑えているのを発見します 。カビの出す物質が細菌を殺している――フレミングはその物質に「ペニシリン」と名付け、翌1929年に報告しました 。これが近代抗菌薬の幕開けとなったのです。
ところが当初、この発見は研究者仲間からほとんど関心を持たれませんでした。ペニシリンの分離精製は非常に難しく、「治療薬として大量生産するのはほぼ不可能」とさえ評され、フレミング自身も開発を一時断念したほどでした 。それでも“自然の偶然”がもたらしたこの青カビの奇跡が、約10年後に再び脚光を浴び、人類と細菌の戦いを一変させる物語が始まるのです。
ペニシリンの奇跡と大量生産の時代
フレミングの発見から10年あまり経った1930年代末、オックスフォード大学の病理学者ホードリー・フローリーと生化学者アーネスト・チェインがペニシリンの研究に乗り出しました。彼らはチームを組み、培養液をバスタブやミルク缶に入れては試行錯誤を重ね、ようやく微量のペニシリン抽出に成功します 。そして1940年、致死的な溶連菌感染に罹った8匹のマウスにペニシリンを投与する動物実験で、見事4匹の命を救うことに成功しました 。ペニシリンの劇的な効果に研究者たちは確信を深めます。しかし最大の課題は圧倒的な生産量不足でした。培養液何ガロンからわずかなペニシリンしか得られず、研究室は「ペニシリン工場」と化して昼夜フル稼働します。それでも当時得られたペニシリン量は、ごくわずかだったのです 。
やがて迎えた1941年、人類初のペニシリンによる治療が行われます。バラのトゲで顔にできた傷から敗血症を起こし瀕死となっていた警官アルバート・アレクサンダーに、フローリーらは試作ペニシリンを投与しました。すると患者の容体はみるみる改善し、「奇跡の薬」の誕生を確信させる劇的効果が現れます 。しかし喜びも束の間、薬の在庫が底を突いて投与を中断せざるを得なくなると、感染は再燃し警官は数日後に亡くなってしまいました 。極限状態の中、研究チームは患者の尿からペニシリンを再回収して再利用するという必死の策まで講じました(投与量の約8割が尿中に排泄されるためです) 。臨床効果の確かさと、生産量の不足――このアンバランスが早急に解決すべき大きな課題でした。
折しも第二次世界大戦の真っただ中、イギリスでは十分な製造設備を確保できません。フローリーたちはペニシリン原液をトランクに忍ばせて渡米し、大量生産の協力を求めました 。アメリカ農務省の研究所があるイリノイ州ピオリアでは、醸造技術の専門家たちが知恵を絞り、培養液にトウモロコシの副産物を加える工夫でペニシリンの収量を飛躍的に高めることに成功します 。さらに世界中からペニシリウム菌株を集めて探索した結果、意外にも近所の市場のメロンのカビから得た株がフレミングの株より6倍も多くペニシリンを産生することがわかりました 。こうした努力により生産効率は劇的に改善され、アメリカ参戦後は製薬企業も続々と量産に参入します。1944年のノルマンディー上陸作戦時には、連合軍兵士たちが計230万回分ものペニシリンを携行できるまでになっていました 。かくしてペニシリンは戦時下で多くの命を救い、「命の恩人」として凱旋を果たしたのです。敗血症や肺炎、淋病など、それまで不治とされた病が次々と治る様子に、人々はこの新薬を「奇跡の薬」と呼びました 。1945年には発見者フレミングと開発者フローリー、チェインの3氏にノーベル生理学・医学賞が授与され、その功績が讃えられました 。
抗菌薬“黄金期”の到来
ペニシリンの成功は、創薬の世界に新たなゴールドラッシュを引き起こしました。第二次大戦後、各国で競うように新たな抗生物質が探索され始めます。その中心となったのが土の中でした。土壌には無数の微生物が棲み、その中の放線菌というグループが有用な抗生物質を作ることが多いと分かったのです。製薬各社は世界中から土壌サンプルを集めて微生物を培養し、菌が作る物質を片っ端から調べました 。例えば、エリスロマイシンを産生する放線菌は、フィリピン人医師が自宅の庭土から発見し米国リリー社に提供したものです(1949年) 。またイタリアでは下水からセファロスポリウム菌を分離し、新しい抗生物質セファロスポリンの開発につなげました。日本でも、この抗生物質探索の波に乗ります。ペニシリン国産化に尽力した微生物学者梅澤濱夫は1957年、土壌放線菌からカナマイシンを発見しましたが、これは日本で最初に発見された抗生物質として知られています 。カナマイシンは結核菌にも有効で、当時不治の病だった結核治療に希望をもたらしました。
こうして1940~50年代から1960年代にかけて、まさに雨後の筍のごとく新種の抗菌薬が登場します。ペニシリンに続き、ストレプトマイシン(1944年、結核に効果)やクロラムフェニコール(1947年、チフス治療薬)、テトラサイクリン(1948年、ブドウ球菌からリケッチアまで効く広域薬)などが次々に開発されました。ストレプトマイシンを発見し「抗生物質」という言葉を提唱したアメリカの微生物学者ワクスマンは、それら功績により1952年にノーベル賞を受賞しています 。1950年代までにはほとんどの細菌感染症に対し有効な抗生物質が出揃い、この時代は「抗菌薬発見の黄金時代」とも呼ばれます 。医師たちは感染症克服も夢ではないと期待し、まさに奇跡の連鎖に沸いたのです。
“耐性”という宿命の反撃
しかし、抗菌薬が効くのは最初だけでした。ほどなくして現れたのが「薬剤耐性」という人類の宿敵です。細菌は世代交代が速く、驚異的なスピードで進化します。新しい薬が登場しても、やがて効かなくなる菌(耐性菌)が現れるのは時間の問題に過ぎません 。実際、サルファ剤に対する耐性菌は1930年代にはすでに確認されていましたし、1928年発見のペニシリンについても本格使用前の1940年時点でペニシリンを分解する酵素(ペニシリナーゼ)が存在することが報告されています 。ストレプトマイシンも1944年の発見からわずか1年で耐性菌が見つかりました 。黄色ブドウ球菌に有効なペニシリン系の改良薬メチシリンが1960年に登場すると、その翌年には早くもメチシリン耐性ブドウ球菌(MRSA)の感染症例が英国で報告されています 。細菌は酵素で薬を分解したり、薬の作用標的を変化させたり、あるいは薬を体外に排出したりと、ありとあらゆる手段で生き延びようとするのです 。こうした耐性化との戦いはイタチごっことも表現され、人類が新たな抗菌薬を開発しても次々にそれを打ち破られてしまいます 。
医療現場では、この耐性菌との戦いに苦慮し始めます。1960年代以降、院内感染症の原因菌としてMRSAが世界的に広がり 、ペニシリンやセフェム系では治療困難な多剤耐性菌が増加しました。グラム陰性菌もβラクタマーゼ(抗生物質分解酵素)を産生してペニシリン系を無力化し、これに対抗して酵素に強い第3世代セフェム系薬が開発されると、さらにそれを分解するESBL産生菌が現れる、といった具合です 。グラム陽性菌では、強力なバンコマイシンが登場してしばらくは耐性菌が現れない例外もありましたが、それでも1980年代後半にはバンコマイシン耐性腸球菌(VRE)が出現し、ついに2002年には米国で**バンコマイシン耐性ブドウ球菌(VRSA)**まで報告されました 。まさに細菌は「したたか」であり、人類との軍拡競争が始まったのです。
最終兵器・カルバペネムの登場
こうした耐性菌との戦いの中、1980年代に投入された切り札がカルバペネム系抗菌薬です。ペニシリンやセフェムに代表されるβラクタム系抗生物質の構造を基本に持ちながら、細菌の分解酵素に極めて強く設計された新種の抗生物質でした。最初のカルバペネムとなった物質はチエナマイシンといい、1976年に米国の製薬会社が放線菌(Streptomyces cattleya)から発見したものです 。チエナマイシンは驚異的に広範な抗菌スペクトルと強力な殺菌力を示しましたが、不安定で製剤化が困難でした 。そこで科学者たちは構造を少し変えて安定化させたイミペネムを創り出します 。しかし今度は体内で腎臓の酵素により分解されてしまう問題が露呈しました 。知恵を絞った末、酵素阻害剤のシラスタチンをイミペネムと1対1で配合することで分解を防ぎ、薬効を維持することに成功します 。こうして1985年に世界初のカルバペネム製剤イミペネム・シラスタチン(日本では商品名チエナム®として1987年発売)が登場しました 。
カルバペネム系は、その登場時から「最終兵器」と称されました。グラム陽性菌からグラム陰性菌、嫌気性菌に至るまで極めて広い抗菌スペクトルを持ち、多くの既存薬に耐性を示す病原菌にも有効だったからです 。臨床では重篤な感染症や耐性菌感染症に対する最後の拠り所として位置づけられ、通常の抗菌薬では効果がない場合に初めて用いられる切り札となりました。また1980年代後半から90年代にかけて、日本発のパニペネム・ベタミプロン(商品名カルベニン®)やメロペネム(メロペン®)、さらにはドリペネム、ビアペネムといった新たなカルバペネム系薬も次々に開発され、重症感染症治療の武器が拡充されていきます 。カルバペネム系登場によって臨床現場は一息ついたかに見えました。ペニシリン発見から半世紀、人類はついに「細菌に打ち勝つ最強の薬」を手に入れたと思われたのです。
「奇跡の時代」の終焉と現代への教訓
ところが、現実はそう甘くありませんでした。カルバペネム系という最終兵器も、細菌にとっては次なる克服のターゲットに過ぎなかったのです。1990年代に入る頃から新規の抗生物質創薬は世界的に低迷し始めます。1950〜60年代のようなまったく新しい機序の抗菌薬はほとんど出現しなくなり、大手製薬企業が大規模な微生物スクリーニングを行っても成果が上がらない時代となりました 。その一方で既存薬への耐性菌は増え続け、研究者たちは既存抗生物質の化学修飾による改良版を作って凌ぐようになります 。しかし、そうして開発された新型薬に対しても細菌はすぐさま耐性を獲得し、いたちごっこは続きました 。
ついに悪夢の細菌の出現です。1993年、カルバペネム系が効かないカルバペネム耐性腸内細菌科細菌(CRE)が報告されました 。カルバペネム系はそれまで「耐性菌への最後の砦」とされてきただけに、CREの発見は医学界に大きな衝撃を与えます。CREの中には既存のあらゆる抗菌薬が効かない菌すら含まれており、そのような感染症にはもはや抗菌薬で治療できる手立てがありません 。こうした耐性菌(いわゆる「スーパーバグ」)の台頭により、21世紀に入ると「ポスト抗生物質時代」の到来すら危惧されるようになりました。実際、世界保健機関(WHO)や各国政府は、耐性菌を人類への重大な脅威と位置づけて対策を呼びかけています。
奇しくもフレミングは1945年のノーベル賞受賞講演にて、「ペニシリンを中途半端な量で使えば菌は耐性化し、治療が効かなくなる恐れがある」と警鐘を鳴らしていました 。人類はその予言通りの未来に直面しているのかもしれません。抗菌薬がもたらした奇跡の時代は確かに終焉を迎えました。しかし、それは同時に私たちへの教訓でもあります。すなわち、「抗菌薬は有限の資源」だということです。むやみに乱用すれば効かなくなり、本当に必要な場面で効く薬が無くなってしまう――この歴史が示す事実を、現代の医療者である私たちは深く胸に刻むべきでしょう。
幸いなことに、人類はまだ完全に手詰まりになったわけではありません。耐性菌に立ち向かう新しい抗菌薬候補の研究は今も続き、海洋や人間のマイクロバイオームなど未踏の源から新薬種を探す試みも進められています 。さらには、細菌そのものではなくヒトの免疫機構を強化したり、細菌に感染させるウイルス(ファージ療法)を用いたりする代替アプローチも模索されています 。こうした挑戦が実を結ぶまで、私たち医療従事者にできることは、目の前の抗菌薬を賢く使うことです 。奇跡の薬を奇跡のまま後世に引き継ぐために──薬剤師である私たちも、適正使用の推進や患者さんへの啓蒙という形で、この壮大な物語の一端を担っているのです。
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