― “忘れること”が病になるまで、そしてその先へ
このシリーズでわかること
かつて「老人の物忘れ」は単なる老化現象と考えられ、効果的な治療法もありませんでした。
しかし現在では、認知症は脳の疾患として理解され、進行を緩やかにする薬や対処法が次々と登場しています。
このシリーズでは認知症という概念の成立から現代に至る治療戦略の変遷をひも解きます。
アルツハイマー病の発見秘話、治療薬がなかった時代のケアの実態、薬剤開発の歴史的トリビア、そして最新の抗体医薬の意義と限界まで、専門的かつ平易に解説します。
みんなで認知症治療の本質的な目的と今後の展望について考えてみましょう。
では。
私たちは「物忘れ」をどこか仕方のないものだと感じています。でも、それは本当に“老化現象”なのでしょうか?
シリーズ第1回では、「認知症」という言葉の誕生から、アルツハイマー病の発見、日本における「痴呆」から「認知症」への転換までを一気にたどります。
認知症概念の成立と歴史的背景(「痴呆」から「認知症」へ)
「認知症(dementia)」という言葉はどのように生まれ、使われてきたのでしょうか。
古くはギリシャ・ローマ時代から「老年による精神の衰え」が認識されており、中世ヨーロッパでは「老年は神の罰」とみなされたこともありました。
近代に入り精神医学が発達すると、「老人の呆け」は医学的関心の対象となります。
19世紀末、チェコのピックやドイツのアルツハイマーらによって、老年期の脳に生じる異常所見が報告され始めました。
中でも1906年、ドイツの精神科医アロイス・アルツハイマーは、50歳代という比較的若年で重度の記憶障害と幻覚を呈した女性患者(アウグステ・D)の症例を発表し、死後脳に老人斑(アミロイド斑)や神経原線維変化といった特徴的な病理所見を発見しました。
この画期的な報告に注目した精神科の権威エミール・クラペリンは、1910年にこの疾患を「アルツハイマー病」と命名し、自身の教科書に初めて記載しました 。
当初この「アルツハイマー病」とは若年発症の稀な病気と考えられ、一般的な老年期の物忘れ(いわゆる老人性痴呆)とは区別されていたのです。
一方、日本における「認知症」概念の歩みも独特です。
古くは江戸時代まで「耄碌(もうろく)」などとも称されましたが、1909年、東京帝国大学の精神科医・呉秀三がドイツ語 Demenz の訳語として**「痴呆」を採用したのが始まりでした。
呉秀三はそれまで精神病の名称に用いられていた「癲」や「狂」といった差別的な字を避ける意図で「痴呆」を選んだ経緯があり、当時としては先進的で配慮ある用語だったのです。
彼は、現在の統合失調症を「早発性痴呆」(dementia praecox)、高齢者の認知症を「老耄性痴呆」(senile dementia)、梅毒による認知症を「麻痺性痴呆」と命名し、「痴呆」は広く「知的障害を伴う精神の衰退」を意味する医学用語**として定着しました。
しかし時が経つにつれ、「痴呆」という言葉自体が持つ侮蔑的ニュアンスや偏見が問題視されるようになります。
特に2000年前後から当事者や専門家の間で名称見直しの機運が高まり、2004年のクリスマスイブに開催された厚生労働省の検討会において公式に**「痴呆」から「認知症」への用語変更**が決定されました 。
以後、「認知症」という新しい呼称は行政用語や保険診療名でも使用され、短期間で社会に浸透していきます 。
この変更には「たとえ治せない病でも、その人の尊厳を損なわない名称にする」という願いが込められていました。
20世紀後半になると、認知症の概念自体にも大きなパラダイム転換が起こりました。
**1970年代頃から「認知症は正常な老化とは異なる疾患である」**との認識が広がり始めたのです。
実際、1976年の有力な論文では、それまで別々と考えられていた「アルツハイマー型痴呆(初老期発症)」と「老人性痴呆」を統合し、単一の疾患として「アルツハイマー病」と呼ぶべきだと提唱されました 。
この主張は「高齢者の物忘れも若年発症のアルツハイマー病も連続した同一疾患であり、加齢に伴う不可避な現象ではなく治療や研究の対象たりうる」という重要な視点を示したものです。
こうした議論や研究の積み重ねにより、認知症は単なる老化ではなく病理学的な根拠を持つ疾患であるという現在の概念が確立しました。
この概念的進歩は認知症研究への注目度と資金を大きく高めましたが、一方で「治療」に過度に焦点が集まりすぎて介護の重要性が軽視されるという皮肉な側面も指摘されています。
「認知症は疾患である」──この視点が、のちの治療薬開発やケアのパラダイムを変えていきます。
次回は、治療薬が存在しなかった時代、患者や家族がどのように向き合っていたのかを掘り下げます。
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