咳とは何か/止めていい咳・いけない咳
咳(せき)は、気道に入った異物や過剰な分泌物を排出するための重要な防御反射です 。つまり本来、咳は身体を守る役割を果たしています。しかし、すべての咳を無闇に抑えて良いわけではありません。一般に、痰を伴わない**乾いた咳(乾性咳嗽)**は必要に応じて鎮めてもよい一方、痰の絡む咳(湿性咳嗽)は無理に止めないほうがいいとされます 。痰が絡む湿った咳を咳止めで抑え込むと、痰の排出が妨げられて症状が悪化する可能性があるためです 。こうした場合には去痰薬などで痰を出やすくし、「出すべき咳」は残す対応が望ましいといえます。
一方、痰の絡まない乾性の咳では、咳そのものが患者の苦痛や睡眠障害の原因となります 。特に夜間の激しい咳は不眠や肋間痛、頭痛、嘔吐など日常生活に支障をきたすこともあり 、必要に応じて咳を抑える薬剤(鎮咳薬)を用いる意義があります。ただし乾性咳嗽であっても漫然と使用すべきではなく、原因疾患の治療と両輪で適切に用いることが大切です 。また、咳は非常に強力な反射であり薬で完全に止めきることは難しいこと、そして原因を無視して表面的に抑える対症療法に過ぎないことも踏まえる必要があります 。
以上のように、**「止めていい咳」と「止めてはいけない咳」**を見極めることが重要です。痰を伴う咳は痰の排出を優先し、乾いた咳や体力を消耗させる咳に対しては症状緩和目的で咳止めを検討するというのが基本的な考え方になります 。薬剤師としても、患者さんの咳の性状を確認し、咳止めが適切かどうかを判断する視点が求められます。
オピオイドから始まる鎮咳薬の歴史
人類は古来より咳を和らげる手段を模索してきました。その歴史の出発点となったのはアヘン由来のオピオイドです。アヘンの主要成分であるモルヒネや、その派生物であるコデインは鎮痛作用とともに強力な鎮咳作用を持ち、19世紀には**「咳止めの特効薬」として広まりました 。例えばコデインは1830年代に単離され、以後長らく標準的な鎮咳薬として処方されてきました。また1898年には、ドイツの製薬会社バイエル社がモルヒネの代替として開発したヘロイン(ジアセチルモルヒネ)**を「安全で有効な咳の治療薬」として市販する出来事もありました 。ヘロインは当初「モルヒネより副作用が少なく、鎮咳効果は10倍も高い奇跡の新薬」と宣伝され 、結核や百日咳の治療に用いられました。しかしすぐに強い依存性が判明し、医療用途から姿を消しました。このような歴史は、咳を止める効果と副作用リスクの天秤の難しさを物語っています。
20世紀に入ると、オピオイドに代わる非麻薬性の鎮咳薬が求められるようになります。代表的なのが**デキストロメトルファン(DXM)**です。これはモルヒネの構造を一部変更した異性体で、1950年代に米国で開発・承認されました 。DXM(日本では塩野義製薬の「メジコン」などの商品名で発売)は中枢の延髄咳中枢に作用して咳反射を鈍らせる一方、モルヒネ様の鎮痛・多幸作用や呼吸抑制がほとんどないため、コデインに代わる安全な鎮咳成分として広く普及しました 。
さらに、日本発の鎮咳薬も登場しました。その一つが**チペピジン(商品名アスベリン)です。チペピジンは1959年に日本で開発された非麻薬性鎮咳薬で 、神経系に作用して咳閾値を高めるとされます。同様にクロペラスチン(商品名フスタゾールなど)も日本や欧州で用いられる非麻薬性鎮咳薬で、中枢作用に加え抗ヒスタミン作用も併せ持つ特徴があります 。これらの合成鎮咳薬は、「オピオイドに頼らない咳止め」**として1960年代以降に次々と開発・上市され、現在まで引き継がれています。
日本で日常診療によく使われている鎮咳薬としては、上述のメジコン(DXM)、アスベリン(チペピジン)、フスタゾール(クロペラスチン)などの非麻薬性中枢性鎮咳薬のほか、少量のコデイン類を含む合剤も挙げられます。例えばフスコデ配合錠・シロップはジヒドロコデイン(コデイン類)に気管支拡張薬(メチルエフェドリン)と抗ヒスタミン薬(クロルフェニラミン)を配合した医療用合剤で、頑固な咳に対処する目的で用いられてきました 。このように、鎮咳薬の歴史は麻薬性→非麻薬性へ、また単一成分→複数成分配合へと広がりを見せて現在に至っています。
日本の「有効率」時代と再評価制度
日本の医薬品評価の歴史を振り返ると、かつて**「有効率」**という指標が広く使われていた時代がありました。これは臨床現場で薬を投与した患者のうち、「著効」「有効」など効果ありと判定された割合を示すもので、現在のようなプラセボ対照試験ではなく医師の判断による主観評価に基づくものでした。高度成長期から昭和中期にかけて、新薬の承認や宣伝において「本剤の有効率○○%」といった表現が数多く見られ、鎮咳薬も例外ではありません。例えばある時期の鎮咳薬の宣伝では「8割の患者に咳止め効果」といった謳い文句が用いられたこともあり、当時はそれが科学的根拠と受け止められていたのです。
しかしこの**「有効率」頼みの評価法**には、大きな問題が内在していました。すなわち、プラセボ(偽薬)や自然経過による改善を区別できず、薬そのものの真の有効性を過大に見積もってしまう傾向があったのです。鎮咳薬の分野も、医師と患者の主観的な改善実感に基づくデータでは高い有効率が報告されていた一方、厳密な比較対照を欠くためにその信頼性には疑問が残っていました。
この状況を改めるべく、1970年代末に日本では医薬品の再評価制度が導入されました。1979年の薬事法改正以降、過去に承認された医薬品について改めて有効性・安全性のエビデンスを再検証する取り組みが始まったのです 。鎮咳薬もこの再評価の対象となり、古い時代に発売された薬の中には、近代的な臨床試験では有効性の裏付けが乏しいと判断されたものもあります。例えば、かつて痰の切れを良くする目的で処方されていたリゾチーム製剤(商品名レフトーゼなど)は、再評価の結果「有用性を示す根拠がない」とされ保険適用から削除されました 。これは去痰薬の例ですが、同様に従来の鎮咳薬も厳しい目で効果が検証され、一部は適応症の削除や使用制限が行われています。
また、日本独自の有効率神話を打ち破るように、**エビデンスに基づく医学(EBM)の潮流が1990年代以降強まりました。海外の文献が次々と紹介され、プラセボ対照二重盲検試験の重要性が認識され始めると、それまで「咳止めは有効」と信じられてきた薬剤にも再検討の目が向けられました。結果、従来の有効率データでは高い効果が示唆されていた鎮咳薬でも、厳密なRCT(ランダム化比較試験)では統計的に有意な差が出ないケースがあることが判明してきたのです。いわば、日本の鎮咳薬は“効く薬”から“再評価が必要な薬”**へと位置づけが変わっていったと言えます。
以上のように、日本の医薬品評価は**「有効率時代」から脱却し、近代的な試験デザインによる再評価**を経て、より厳密なエビデンスを重視する方向へと変貌しました。これは鎮咳薬の評価にも大きく影響し、後述するような「咳止めは効かない」という見解の台頭につながっていきます。
RCT時代と「咳止めは効かない」の誕生
プラセボ対照RCTが普及した現代において、鎮咳薬に対する評価は大きく様変わりしました。従来「咳によく効く」と思われていた薬の多くが、RCTではプラセボと大差ない結果しか示せなかったからです。この傾向は2000年前後から顕著で、例えば2002年に英国で発表された研究では、市販の幾つかの咳止め薬は急性咳嗽に対してプラセボと比べ有意な優越性が認められないと報告されました 。また、米国胸部疾患学会(ACCP)は2006年のガイドラインで「市販の多くの咳薬に有効性の根拠がなく、仮に症状を和らげても原因疾患を治療するものではない」とするメッセージを発しています 。
特にコデインは、長らく鎮咳薬のゴールドスタンダードと見なされてきたにもかかわらず、近年の placebo 対照試験でその評価が覆された例の一つです。複数の試験で、コデインは上気道炎やCOPDによる咳嗽に対してプラセボ以上の効果を示せなかったと報告されています 。言い換えれば、「鎮咳薬の代表格」であったコデインですら臨床試験で有効性を証明できず、**“コードシロップは効かない”**という皮肉な結論に至ったのです。このような知見から、海外では「コデインと咳: 効かないのに使われている古典的薬」などと批判的に論じる論文も現れています。
日本でも、デキストロメトルファン(メジコン)やチペピジン(アスベリン)について、近年になってようやくRCTが実施され、その結果が報告されるようになりました。例えば2019年に国内の小児科外来で行われた研究では、チペピジン配合群のほうが対照群より咳症状の改善率がむしろ低いという意外な結果が示されました 。また、デキストロメトルファンに関する国際的なレビューでは、「無治療よりはマシだが、蜂蜜より劣る」「プラセボと効果が同等で、副作用(不眠など)はプラセボより多い」といった評価がされています 。要するに、RCTの時代になって浮き彫りになったのは「咳止め薬の真の効果は極めて限定的」という現実でした。
こうした知見が蓄積するにつれ、臨床現場でも「咳止めは効かない薬」との見方が広まりました。専門医の中には「市販の咳止めの効果は期待できない」「咳止めは原因を隠すだけで根本治療にならない」と積極的に発信する人もいます 。極端な言い方をすれば、「咳止めはプラセボ程度の作用しかなく、多くの場合飲んでも飲まなくても経過は変わらない」という考え方です 。
もっとも、ここで注意すべきは、プラセボ程度とはいえ一応の症状軽減効果はある点です。実際、「プラセボと同等」ということは、患者本人が「何か飲んだ」という安心感によって症状が和らぐ余地はあるということでもあります。鎮咳薬は総じて効果が小さいのは事実ですが、そのわずかな効果すらも8割以上がプラセボ効果によるとも指摘されています 。このようにEBMの観点から厳しく評価された結果、「咳止め=効かない薬」というイメージが定着してきたのです。
評価法の進化(咳カウント・QOLスケール)
鎮咳薬の有効性を正しく評価するため、試験デザインや評価指標も年々進歩してきました。かつては前述の有効率のように主観的な判定が中心でしたが、現在では客観的かつ定量的な評価法が重視されています。
まず、咳の回数(咳発作の頻度)をカウントする方法が普及しました。患者の日誌(日中・夜間の咳回数を自己申告)を用いる方法に加え、近年では小型の咳モニター装置を患者に装着し、24時間の咳を音声解析によって自動カウントする技術も開発されています 。例えば欧州呼吸器学会(ERS)のガイドラインでは、咳音のパターンを解析して1回の咳を定義する手法が取り入れられており、こうした機器を用いることで治療前後の咳頻度の客観比較が可能になっています 。咳モニターによるデータは、従来の自己申告より精度が高く、新しい鎮咳薬の治験などでも有効性検出に威力を発揮しています。
次に、患者さん自身の感じる咳の重症度や生活への影響を評価する尺度も導入されました。代表的なのが咳関連のQOL(生活の質)を測定するスケールです。イギリスで開発されたレスター咳質問票(Leicester Cough Questionnaire, LCQ)や、咳症状による困難度を評価するカフ・アセスメントテスト (COAT)/日本語版Cough-specific QOL尺度などがあり、咳による困擾(困りごと)の度合いを多面的にスコア化できます 。例えばLCQでは身体的・心理社会的な項目を含む質問票により、スコアが低いほどQOL低下(咳の悪影響大)を示します。これらQOLスケールは、単に咳の回数だけでなく患者がどれだけ咳で苦しんでいるかを定量化できる点で意義があります。
さらに、咳の主観的な強さを評価するビジュアルアナログスケール(VAS)や逐日の日誌による症状スコアも用いられます 。VASでは「咳が全くない状態」を0、「耐えられないほどひどい咳」を10などとして患者に自己評価してもらいます。これも治療による改善度合いを測る一つの客観指標です。
近年の新薬の臨床試験では、咳発作の回数(客観指標)と患者報告アウトカム(PRO)としての咳症状スコアやQOLの両面から有効性評価が行われます。例えば難治性の慢性咳嗽に対するある新規鎮咳薬の試験では、24時間咳発作回数がプラセボ群比で有意に減少したかどうか、さらに患者が報告する咳の困難度スコアが改善したかどうかが主要評価項目となっています 。このように多角的な評価法の進化により、**「どの程度咳が減り、患者がどれほど楽になるか」**をより正確に測定できるようになりました。
ただし、咳の評価にはまだ課題もあります。咳は日によってばらつきが大きく、完全な客観指標を得るのは容易ではありません。また、患者の感じ方も個人差が大きく、同じ咳頻度でも苦痛の程度は人それぞれです。そのため、客観指標と主観指標を組み合わせ総合的に判断することが推奨されます 。評価法の洗練はそのまま鎮咳薬開発の基盤強化につながるため、今後も継続的な改良が望まれるところです。
慢性咳嗽・COPD領域での再評価
鎮咳薬の価値が見直されている領域として、慢性咳嗽およびCOPD(慢性閉塞性肺疾患)における咳への対応が挙げられます。従来、咳は風邪など急性疾患の一症状として語られることが多かったのですが、近年では8週間以上続く慢性咳嗽が独立した臨床課題として注目されるようになりました 。原因が特定できない難治性慢性咳嗽(咳嗽過敏症候群を含む)では、患者のQOL低下が深刻であり、その症状緩和のために既存薬の再評価や新規薬の開発が活発化しています。
例えば、難治性の慢性咳嗽に対しては少量のオピオイドが再評価されています。英国や米国のガイドラインでは、他の治療で改善しない慢性咳嗽患者にモルヒネの低用量投与を試みることが推奨される場合があります。実際、慢性特発性咳嗽の患者を対象としたRCTにおいて、1日あたりモルヒネ5~10mgという低用量でプラセボ群に比べ有意な咳頻度の減少と症状改善が報告されました 。副作用(便秘や眠気など)は注意が必要ですが、この研究は**「長引く咳にオピオイドが有効」**という古典的知見をエビデンスとして裏付け、ガイドラインでの位置づけを確立させました。
一方、かつて慢性咳嗽に汎用されたコデインについては評価が厳しく、例えばCOPD患者の慢性咳にコデインを使ってもプラセボ以上の効果がないとの結果もあります 。このため、慢性咳嗽領域ではコデインよりモルヒネ(より強力で代謝の個人差も少ない)に軍配が上がりつつあります。またオピオイド以外では、ガバペンチノイド(神経調節薬)やマクロライド少量長期投与などが慢性咳嗽に有効との報告があり、鎮咳薬の概念を超えた治療法も模索されています 。
さらに、この分野で画期的な進歩となりうるのがP2X3受容体拮抗薬という新規作用機序の鎮咳薬です。咳嗽の神経経路におけるATP受容体をブロックすることで咳反射過敏を抑える薬剤で、代表候補のゲフapキサント(gefapixant)は国際臨床試験で慢性咳嗽患者の咳発作頻度を有意に減少させることが示されました。しかし副作用として味覚障害が高頻度に出現し、実用化に向けた課題も残っています。とはいえ、長年「新薬不毛の地帯」と言われた鎮咳薬分野において、初めて従来薬とは全く異なる作用機序の新薬候補が登場した意義は大きく、現在も各国で治験と評価が続けられています。
COPDにおける咳については、これまで積極的に抑えるべきでない症状と考えられてきました。COPDの咳は慢性的な痰排出を伴うことが多く、無理に鎮咳すると痰のうっ滞を招き病状悪化の恐れがあったためです 。事実、COPD管理の基本は禁煙・気管支拡張薬・去痰などで、鎮咳薬は公式には推奨されてきませんでした。しかし、COPD患者の中には痰が少ないのに咳嗽反射だけ過敏になっている例もあり、そうした場合にQOL改善目的で鎮咳薬を使うことの是非が議論されています。特に終末期に近い重症COPD患者では、耐え難い咳に対し緩和ケア的にモルヒネを用いるケースもあります 。またCOPDに合併する慢性咳嗽に対して、新規のP2X3拮抗薬が有効かどうか検証する研究も始まっています。今後、COPD領域でも「出すべき咳」と「抑えるべき咳」の線引きが精密になされ、必要に応じて鎮咳薬を再評価・適正使用する流れが進む可能性があります。
薬剤師の立場での咳止めの再定義
以上の知見を踏まえ、薬剤師として咳止め(鎮咳薬)をどのように位置づけ直すかが問われています。ただ漫然と「咳に効く薬」と説明する時代は終わり、エビデンスに基づいた正しい知識と患者への適切な情報提供が重要です。
まず、薬剤師は咳止めの薬理作用と限界をしっかり把握する必要があります。鎮咳薬の多くは延髄の咳中枢に作用して咳反射の閾値を上げるだけであり、炎症や感染そのものを治すわけではありません 。したがって「原因を取り除く薬ではなく症状を和らげる対症療法」という位置づけを明確に伝えることが求められます。また、「効き目には個人差が大きく、効かない人もいる」こと、「痰が絡む咳には原則使用しないこと」も基本的な説明ポイントです 。
一方で、「だから咳止めは無意味だ」と切り捨てるのではなく、患者の辛さを軽減する一手段として上手に使う姿勢も大事です。たとえプラセボ的な要素が大きいとしても、患者さんが「薬を飲んでいる」という安心感を得て休息できるのであれば意味はあります 。薬剤師は科学的な視点と人間の心理的側面の両方を考慮し、患者に最適なアドバイスを行う役割があります。
具体的には、以下のような再定義が考えられます。
- 症状緩和のサポーター: 咳止めは咳を完全に止めるものではなく、「咳を和らげて日常生活のしんどさを軽減する薬」と位置づけます。その日の睡眠を確保したり会議中の発作を抑えたりといった、患者のQOL向上を助ける役割を強調します。
- 使う場面を選ぶ薬: 咳止めは万能薬ではないため、「使うべき場面」を明確にします。先述のように乾いた咳や夜間の咳で辛いときには有用だが、痰の絡む咳や原因不明の慢性咳嗽には適さないと説明します 。必要に応じて医師への相談(原因検索や他の治療の検討)を促すのも薬剤師の役目です。
- 安全に配慮した薬: コデイン系では依存や呼吸抑制のリスクがあること、小児には禁忌であること 、またDXMも大量服用は中枢神経への有害作用があり乱用例もあること を説明し、用法用量遵守と注意喚起を行います。市販薬を購入する人にも、眠気など副作用情報や相互作用(他の風邪薬との重複成分など)を丁寧に確認します。
- 患者心理への対応: もし患者さんが「咳止めなんてどうせ効かないんでしょう?」と不信感を抱いている場合には、エビデンスを踏まえつつプラセボ効果も治療の一部であることを噛み砕いて伝えることも考えられます。「確かに劇的には止まらないかもしれませんが、喉のイガイガが和らいで楽になったという方もいますよ」といったバランスの取れた説明で、患者さんの納得感を高めることが重要です。
さらに、薬剤師ならではの工夫として、製剤の選択もあります。前述のように鎮咳薬の効果のかなりの部分はプラセボ的要因に左右されるため 、患者が飲みやすく実感を得やすい製剤形態を選ぶことも一助となります。例えば、シロップ剤で喉を潤す感じが得られるもの、メントール配合でスーッとする風味のもの、甘味が強く服用しやすいものなどです 。処方薬だけでなく市販薬について相談を受ける際も、患者の好みに応じてこうした特徴を説明できると良いでしょう。
要するに、薬剤師は**「咳止め=効かない」という単純な図式に陥らず**、科学的知見と患者の実際のニーズとの調和を図りながら、咳止め薬を再定義して活用する役割を担っているのです。適材適所で咳止めを勧めつつ、過信もさせず、安全にも配慮する――そのようなバランス感覚がプロフェッショナルとして求められます。
なぜ咳止めは今も使われるのか
エビデンス上は効果が限定的とされる咳止めですが、実際には現在でも広く使用され続けています。その背景にはいくつかの理由が考えられます。
第一に、患者の需要があります。咳は非常につらい症状であり、「何とかして止めてほしい」という切実な要望が根強く存在します。特に近年では新型コロナウイルス感染症の流行後に咳に悩む患者が急増し、日本全国で鎮咳薬の需要が一気に高まりました。その結果、2022~2023年頃には主要な鎮咳薬が品薄となり、チペピジン(アスベリン)の供給不足が深刻な問題になったことが報告されています 。調査によると、「在庫切れで困っている薬」として上位を占めたのがいずれも鎮咳去痰薬だったほどです 。このように、咳止め薬は患者から求められる場面が多く、そのニーズに応える形で処方・市販され続けているのです。
第二に、代替手段の乏しさが挙げられます。咳そのものを直接鎮める特効薬は依然として存在せず、完全に咳を止めるには原因治療や時間経過を待つほかありません。抗生物質やステロイドなどは原因に適合すれば奏効しますが、ウイルス性の風邪や原因不明の咳に対しては根本治療がない場合も多々あります。そのため、「少しでも楽にするには咳止めくらいしかない」という現実があり、医師も患者も一定の期待を持って使い続けている側面があります 。言わば**「ないよりマシ」**な選択肢として手放せないのです。
第三に、慣習と処方行動の問題があります。長年の診療慣習で、風邪を引けば咳止め・去痰剤を出すというパターンが染み付いているケースもあります。特に高齢の医師や患者ほど「咳が出ているのに薬が出ないのは手抜きだ」と感じる風潮が残っているという指摘もあります 。薬剤師が処方監査していても、「この程度の咳で鎮咳薬は本当に必要か?」と思う処方がしばしば見られるのが実情です。しかし、処方医の意図としては患者の不安を和らげるためや、慣習的なセット処方で深く考えず出している場合もあり、すぐには減らせないのが現状でしょう。
第四に、プラセボも含めた効果を評価すれば、決して無価値ではないことも一因です。第4章で述べたように、鎮咳薬の効果の多くはプラセボに由来する可能性があります 。しかし、それを裏返せばプラセボでも患者が楽になるなら使用意義はあるとも言えます。医学的厳密さを追求すれば「効能無し」と切り捨てられるかもしれませんが、医療現場では患者の主観的な改善も大切です。特に子供の夜泣きするような咳や、社会人が会議中に咳き込む不安など、心理面での安心を提供する役割を咳止め薬は担っています 。こうした観点から、効果があやふやでも処方を希望する患者に対しては安全性に注意しつつ出す価値があるとの判断がなされています。
最後に、新しい知見や状況への対応策として残されている点もあります。たとえばCOVID-19後遺症としての長引く咳に対し、現状では対症療法として従来の咳止めを試すしかないケースもあります。また、慢性咳嗽の治療薬が開発中とはいえ市販されるまでには時間がかかります。それまでの繋ぎとして既存の咳止めが使われることは今後もしばらく続くでしょう。さらに言えば、医療用のみならずOTC医薬品としても咳止め需要は根強く、市販の総合感冒薬や咳薬コーナーから鎮咳成分が消える気配はありません。法規制で一部(コデインの小児使用禁止など)は制限されましたが 、成人向けにはDXM配合の市販薬などが今も販売されています。これらはセルフメディケーションの選択肢として、市民に広く受け入れられている現実があります。
以上のように、「効かない」と言われつつも咳止めが使われ続けるのは、患者の求め、代わりのなさ、慣習、プラセボ的効果、新たな需要といった複合的な理由によるものです。重要なのは、我々医療従事者がその現状を正しく認識し、流されるのではなく賢く使いこなすことにあります。効果が限定的であればこそ、効果的に働く状況を見極め、不必要な乱用を避けつつ患者の安心とQOL向上に役立てる——それが咳止め薬が今も使われる意義であり、薬剤師が果たすべき役割だと言えるでしょう。


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