18世紀:狭心症(アンジナ)の初記載
狭心症(angina pectoris)は18世紀に初めて臨床的に記載された。1768年、イギリスの内科医ウィリアム・ヘバーデン(William Heberden)は歩行時に胸部に強い絞扼感を生じ、立ち止まると消失する特徴的な症例を学会で報告し 、1772年にこの症状を「アンジナ・ペクトリス(狭心症)」と命名して発表した 。ヘバーデンは胸痛発作が精神的ストレスや安静時にも起こりうることにも言及し、狭心症の典型例と変例の双方を詳細に描写している 。その後1799年、英国医師ケーレブ・パリー(Caleb H. Parry)は「いわゆる狭心症の症状と原因について」と題した著書で、狭心症は冠動脈の閉塞によって心筋への血流が需要に追いつかなくなることが原因であり、安静時には無症状でも運動により発症すると理論的に説明し、冠動脈疾患との関係性を示唆した 。これらの報告により、狭心症は「胸の絞扼感を主症状とし労作で悪化する疾患」として医学界に認知され、以後その病態解明が進められていった。治療面では19世紀に進展があり、1867年にはトーマス・ラウダー・ブラントン(Thomas Lauder Brunton)が硝酸アミル(亜硝酸アミル)の吸入により狭心症発作の痛みを和らげられることを初めて報告し 、これが狭心症治療薬(ニトログリセリンなど硝酸薬)の嚆矢となった。
20世紀初頭:心筋梗塞(MI)の概念成立と冠動脈疾患の拡大
狭心症が症候学的に確立した一方で、心筋梗塞(myocardial infarction; MI)は当初その存在自体が認識されにくい病態だった。19世紀までは冠動脈の急性閉塞は即死につながると考えられ、発症者が生存する例は稀であった。しかし、1879年に米国の病理学者ルドヴィグ・ヘクトン(Ludvig Hektoen)が「冠動脈血栓症が心筋梗塞を引き起こす」との結論を報告し、冠動脈閉塞による心筋壊死という病理学的分類を提示しました 。さらに1912年、米国の内科医ジェームズ・B・ヘリック(James B. Herrick)は冠動脈血栓による心筋梗塞の一連の臨床経過を詳細に報告し、急性心筋梗塞は必ずしも即死を来さず適切な安静・支持療法により生存しうることを示しました 。ヘリックは心電図による診断の重要性や安静臥床による経過観察を提唱し、この報告を契機に心筋梗塞患者の臨床的管理が確立していきました 。こうした知見の蓄積により、狭心症と心筋梗塞は同一の冠動脈病変による時間経過の異なる表現型と捉えられるようになり、両者を包括する概念として「虚血性心疾患」あるいは「冠動脈疾患(Coronary Artery Disease, CAD)」が広く用いられるようになりました。すなわち、冠動脈の粥状硬化による血流不足が労作時の一過性虚血発作(狭心症)から、深刻な血栓閉塞による心筋の壊死(心筋梗塞)まで連続的なスペクトラムを形成すると理解されたのです 。20世紀中頃までには冠動脈疾患は主要な死因として認識され、公衆衛生上も重視される疾患概念となりました。
1970〜90年代:不安定狭心症の概念と急性冠症候群(ACS)の確立
心筋梗塞の発症機序解明が進む中、不安定狭心症(Unstable Angina; UA)の概念が登場しました。1960年代までの研究で、急性心筋梗塞の約半数前後に発症前から狭心症症状の増悪(前駆症状)がみられることが報告されていました。1971年、Fowlerらはこうした心筋梗塞へ移行しやすいハイリスク狭心症を独立のカテゴリーと考え、「不安定狭心症」と初めて命名しました 。続いて1973年にContiらが“不安定狭心症”を「新規発症の労作狭心症」「増悪する労作狭心症」「安静狭心症(安静時にも疼痛発作がある狭心症)」の3亜型に分類し提唱したことで 、その臨床像がより明確化されました。この時期から、狭心症が悪化して心筋梗塞へ至る病態の連続性に注目が集まり、冠動脈粥腫(プラーク)の破綻とそれに続く血栓形成こそが不安定狭心症・急性心筋梗塞発症の共通基盤であるとする考え方が台頭します。実際、1960年代後半から1980年代にかけて病理剖検や冠動脈造影の研究により「冠動脈プラークの破裂が血栓を誘発し急性冠イベントを起こす」ことが数多く示されました 。こうした知見を背景に、1990年代に入ると従来の「心筋梗塞 vs 狭心症」という枠組みに代わり、それらを包含した**急性冠症候群(Acute Coronary Syndrome; ACS)**という包括的な概念が確立します。1992年にフースター(Valentin Fuster)らは、冠動脈プラークの破綻とそれに伴う急性血栓形成による一連の病態を総括し、「急性冠症候群」という用語を用いて不安定狭心症、非ST上昇型心筋梗塞(NSTEMI)、ST上昇型心筋梗塞(STEMI)を同一スペクトラム上の病態として位置付けました 。このACS概念の登場により、狭心症と心筋梗塞は「急性期かつ連続的に進行する冠動脈疾患」という統一的視点で理解されるようになり、治療戦略も「急性期の冠動脈血栓形成をいかに抑制・解除するか」に焦点が当てられるようになりました。
2000年代:STEMI/NSTEMI分類の導入とトロポニン検査のインパクト
1990年代末から2000年代初頭にかけて、心筋トロポニンT・Iの臨床検査への導入は心筋梗塞の診断と分類に革命をもたらしました。トロポニンは心筋細胞に特異的な蛋白で、微小な心筋壊死でも血中に逸脱するため、高感度トロポニン測定によりごく小さな梗塞(微小心筋梗塞)の検出が可能となりました。その結果、2000年前後に心筋梗塞の新しい定義(いわゆる「ユニバーサルMI定義」)が打ち立てられ、血中トロポニン上昇を伴う症例はたとえ心電図上Q波を伴わなくとも「心筋梗塞」と診断されるよう基準が改訂されました 。これにより、それまで“狭心症”とされていた不安定狭心症の一部が非ST上昇型心筋梗塞(NSTEMI)に再分類され、臨床現場での急性冠症候群の扱いが大きく変化しました 。加えて治療面でも、ST上昇の有無によるリスク層別が定着しました。ST高度上昇を呈するSTEMIでは直ちに経皮的冠動脈インターベンション(PCI)や血栓溶解療法による再灌流が最優先される一方、ST上昇を伴わないNSTEMIや重篤な不安定狭心症(総称してNSTE-ACS)は入院下で早期に血行再建術を検討しつつ内科的に抗血小板・抗凝固療法や血行動態安定化を行う戦略が確立しました。 特にトロポニンの有無はNSTEMIと不安定狭心症を鑑別する決定的所見であり、心筋マーカー陰性なら「狭心症」、陽性であれば「心筋梗塞」と診断され治療強度が大きく異なります 。このようにトロポニン導入後は急性冠症候群の診断精度とリスク層別が飛躍的に向上し、高リスク患者に対する早期介入が可能となりました。
2010年代以降:慢性冠症候群(CCS)とINOCA/MINOCAなど新しい概念の登場
21世紀に入り、冠動脈疾患の概念は急性期のみならず慢性期の病態や非定型的な病態にも拡がっています。2019年、欧州心臓病学会(ESC)は狭心症などの慢性的な冠動脈疾患に対するガイドラインを更新し、従来「安定狭心症」などと呼ばれていた状態を包括する新たな枠組みとして**慢性冠症候群(Chronic Coronary Syndrome; CCS)という用語を導入しました。安定しているように見える冠動脈疾患も実際には病態が進行しうることから、“Stable”ではなく“Chronic”**という表現を用いることで、疾患が潜在的に進行し得る連続的過程であることを強調しています 。CCSには典型的な労作性狭心症のほか、以前に心筋梗塞や血行再建術を受けて現在は安定している患者、無症候性心筋虚血の患者など長期に管理すべき種々の病態が含まれます。これにより慢性期冠疾患に対する包括的管理(内科治療の最適化と適切なタイミングでの侵襲的治療の検討)がより重視されるようになりました。
また、近年注目を集めているのがINOCAおよびMINOCAという概念です。INOCA(Ischemia with No Obstructive Coronary Arteries)とは「非閉塞性冠動脈にもかかわらず虚血がある」状態、すなわち冠動脈造影上は有意狭窄(通常50%以上の狭窄)がないにもかかわらず臨床的・検査的に心筋虚血の所見を呈する病態を指します。一方、MINOCA(Myocardial Infarction with No Obstructive Coronary Arteries)は「非閉塞性冠動脈にもかかわらず心筋梗塞を発症した」症例、すなわち心筋トロポニン上昇など急性心筋梗塞の診断基準を満たすにもかかわらず冠動脈に閉塞性病変がない病態を指します。 このMINOCAという用語は2013年頃に文献で初めて提唱され 、2017年にはESCからMINOCAに関する見解が発表され、第三次ユニバーサル定義に基づく診断基準(臨床的に心筋梗塞の所見+冠動脈に50%以上の狭窄病変がない+他の明確な原因疾患がないこと)が示されました 。MINOCAの原因としては、不安定プラークの破綻・自己修復や冠攣縮、微小血管障害、冠動脈解離、冠動脈塞栓、さらにはたこつぼ心筋症や心筋炎(これらは非虚血性機序でありMINOCAからは除外されます)など、多彩なメカニズムがあり、その多くに若年者や女性が多いことが知られています。またINOCAの概念も2010年代後半に北米のC.バイリー・マーズ医師らによって提唱され注目されるようになりました(2017年頃に初めて“INOCA”の用語が用いられたとの指摘もあります)。これは以前から微小血管狭心症や冠攣縮性狭心症、いわゆる心臓症候群Xなどとして知られていた病態を包括する概念で、器質的狭窄はないのに労作時や安静時に狭心症様の胸痛発作と虚血所見を呈する患者群を指します。従来、これらの患者は冠動脈に狭窄がないことから「命に関わらない良性の症状」とみなされがちでした。しかし近年の研究で、INOCAやMINOCAの患者も決して予後良好とは言えず、重大な心血管イベントを起こしうること、生活の質を大きく損なう可能性があることが明らかとなっています 。このため専門学会でもそれぞれの病態に応じた診断アプローチ(例:冠攣縮誘発試験や微小循環機能検査の活用)や治療戦略の重要性が強調されつつあります。まさに冠動脈疾患の概念は「狭い冠動脈があるか否か」から「冠循環の機能不全による虚血リスクを如何に評価し対処するか」へと拡大・深化していると言えるでしょう。
薬剤師が知っておくべき臨床上のポイント
以上のような冠動脈疾患概念の変遷を踏まえ、現代の臨床において薬剤師が押さえておくべきポイントをまとめます。
- ACS(急性冠症候群)とCCS(慢性冠症候群)の鑑別:患者の胸痛が急性発症・増悪傾向であり、安静時にも痛みが持続する場合や心電図変化・トロポニン上昇を認める場合はACSを疑います。一方、症状が長期間安定しており労作時にのみ出現し休息で寛解する典型的な胸痛発作はCCS(安定狭心症)に該当します。ACSは急性心筋虚血による緊急疾患であり、速やかな医療介入が必要です。一方CCSは緊急性は低いものの放置すれば予後悪化につながるため、計画的な評価と継続的治療が重要です。
- 治療方針の違い:ACSでは急性期治療としてただちに血栓予防・除去を図る必要があります。具体的には発症早期からの抗血小板療法(アスピリン+P2Y₁₂阻害薬の二重抗血小板療法)、必要に応じた抗凝固療法の併用、そしてSTEMIであれば一次PCIによる早期再灌流を行います。NSTEMIや高リスク不安定狭心症でも入院の上で早期のカテーテル検査を行い、病変があればPCIやバイパス手術を含む治療戦略を短期間で検討します。これに対しCCSでは長期管理が中心となり、抗狭心症薬(β遮断薬や硝酸薬、カルシウム拮抗薬など)による症状緩和と、抗血小板薬(低用量アスピリンなど)やスタチンによる動脈硬化進展予防が基本となります。狭心症症状や虚血所見が強い場合には計画的にPCIや冠動脈バイパス術を検討しますが、いずれも待機的に施行される点がACSと異なります。
- トロポニン測定の重要性:血中心筋トロポニンの陽性は心筋細胞の壊死を意味し、同じ胸痛発作でもトロポニン上昇があればNSTEMI(非ST上昇心筋梗塞)、上昇がなければ不安定狭心症と診断されます 。この違いは治療強度に直結し、NSTEMIと判定されればより積極的な抗血栓療法や早期カテーテル治療の適応となります 。したがって、救急外来などで胸痛患者に遭遇した際はトロポニンを含む心筋マーカー検査が極めて重要です。
- INOCA/MINOCAへの対応:冠動脈造影で「閉塞がない」と言われた患者でも、症状や検査所見を総合して適切に対応する必要があります。例えばINOCA(微小血管狭心症や冠攣縮性狭心症を含む)では、ニトロ製剤やカルシウム拮抗薬による冠攣縮の抑制、β遮断薬やRanolazineなどによる微小循環の改善、生活指導による発作誘因の回避など、症状機序に合わせた長期管理を行います。またMINOCAでは、その原因に応じた治療(例:冠攣縮が疑われる場合は硝酸薬やCa拮抗薬、心筋炎であれば抗炎症療法など)を行うとともに、心筋梗塞としての二次予防策(抗血小板薬やスタチン、ACE阻害薬の投与など)を可能な範囲で講じます。MINOCA患者も狭心症や心筋梗塞既往患者と同様に長期的な予後管理が必要であり、決して「異常なし」と自己判断せず医療者間で情報共有・継続フォローすることが重要です。
以上、冠動脈疾患の概念は時代とともに細分化・統合を繰り返しながら進歩してきました。18世紀に記載された狭心症から始まり、20世紀に心筋梗塞が理解され、急性冠症候群という包括的概念が確立し、21世紀には慢性期や非閉塞性病変まで視野に入れた包括的な分類体系が整備されています。薬剤師としてもそれぞれの疾患概念の由来と現代的な意味を理解し、急性期と慢性期の対応や患者への説明に反映させることが求められます。特にACSとCCSの違いや、INOCA/MINOCAといった新しい概念にもアンテナを高く張り、チーム医療の中で適切な薬物療法提案・服薬指導ができるようにしておきたいものです。
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