最初のβ遮断薬は、なぜ完成品になれなかったのか|ジェームズ・ブラック第2回

ジェームズ・ブラックの写真と、不完全な候補から複数の評価基準を通って薬を選ぶ過程を表した図 治療の進化
写真:Wellcome Library, London / Wellcome Foundation Archive(原画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sir_James_Black_Wellcome_L0075217.jpg、CC BY 4.0:https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/)。ヤクマニドットコムがトリミング・色調整・図形追加を実施。

前回、ジェームズ・ブラックがICIへ持ち込んだのは、完成した薬の設計図ではなかった。

狭心症の心臓へ酸素を足すのではなく、心臓が必要とする酸素を減らせないか。そのために、交感神経が心臓を速く、強く動かすβ受容体の反応を遮断できないか。彼が作ったのは、この問いを化合物の試験へ変える研究計画だった。

だが、正しい問いを立てれば、正しい薬が一度で出てくるわけではない。

最初の有力候補は、心臓のβ反応を遮断した。患者の運動能力と胸痛にも変化をもたらし、考え方が机上の空論ではないことを示した。それでも、その化合物は完成品になれなかった。

薬の歴史は、後から見ると成功した分子だけが一直線に選ばれたように見える。pronethalolは失敗し、propranololが成功した、と二行で書けば済む。しかし、その二行の間には、何を失敗と呼ぶのか、どの欠点を許さないのか、誰の測定を次の合成へ返すのかという判断が積み重なっている。

今回追うのは、一人の天才が失敗薬を成功薬へ交換した瞬間ではない。

不完全な成功を、ICIのチームが次の選択基準へ変えた過程である。

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1. 最初の答えは、完成品ではなかった

ICIのAlderley Parkで、ブラックの研究計画に最初の具体的な形を与えた化学者がJohn Stephensonだった。

1960年、Stephensonは社内番号ICI 38,174の化合物を合成した。当初の論文ではnethalideと呼ばれ、のちにpronethalol(プロネタロール)、商品名Alderlinとなる化合物である。

ブラックが必要としていたのは、β受容体をただ塞ぐ物質ではなかった。出発点となったDCIはβ反応を遮断できたが、自らも受容体を少し刺激する性質を残していた。心臓を静かにしたいのに、遮断薬自身が刺激を加える。それでは、狭心症へ使う薬として扱いにくい。

ICI 38,174は、DCIより刺激性が弱く、ブラックが組んだ乳頭筋などの測定系でも有望に見えた。1962年、ブラックとStephensonは、この新しいβ受容体遮断化合物の薬理を医学誌に報告した。

ここだけ切り取れば、発明は完成したように見える。

実際、pronethalolは研究室の中だけで消えた物質ではない。小規模な臨床研究では、運動時の心拍や狭心症発作が起こるまでの仕事量が調べられた。β反応を遮断し、心臓の仕事を抑えるという発想を、患者の身体で試せるところまで運んだのである。

ブラックは後年のノーベル講演で、運動習慣のある人とそうでない人、さらに労作性狭心症の患者へpronethalolを用いた初期研究を振り返っている。狭心症患者では、服用後に胸痛が始まるまで、より多くの仕事ができたという観察があった。

この結果は重要だった。β受容体を遮断して心臓の酸素需要を抑える、という研究計画が、人で意味を持つ可能性を示したからだ。

それでもブラックは、pronethalolを完成薬とは見なさなかった。後年、彼はこの化合物を、原理を問うには十分だが、市場へ出すには不十分なprototypeだったと表現している。

「効く可能性がある」と「長く使える薬になる」の間には、まだ大きな距離があった。

2. 「効く」と「薬になる」の間

pronethalolの問題は、後に見つかる発がん性だけではなかった。

動物実験では、振戦や痙攣が現れた。脳内濃度は血中濃度より大幅に高くなり、β遮断そのものとは別の中枢作用が疑われた。人では同じ振戦や痙攣が報告されたわけではないが、有効量で軽い見当識の乱れ、協調運動の乱れ、吐き気や嘔吐といった不快な症状が報告された。

さらに、pronethalolはDCIほどではないにせよ、内因性交感神経刺激様作用を残していた。受容体を遮断しながら、わずかに刺激もする。後に「部分作動性」と呼ばれる性質である。

ここで大切なのは、これらの欠点を一つの原因へまとめないことだ。

中枢作用が部分作動性から生じたとは限らない。部分作動性が後の腫瘍を起こしたわけでもない。活性、刺激性、脳への移行、急性毒性、長期毒性は、それぞれ別の試験で評価すべき条件だった。

ブラックたちは、pronethalolに欠点が見つかるまで何もせず待っていたわけではない。

ICIの内部記録を調べた医学史家Viviane Quirkeによれば、1961年6月から翌年1月までに、特許と構造活性研究のため136の類縁体が調べられた。求められていたのは、より長く作用し、体内のcatecholamineに遮断を突破されにくく、脳へ入りにくい化合物だった。

つまり、より良い後継薬の探索は、pronethalolの決定的な安全性問題が公になる前から始まっていた。

この点を外すと、歴史は「発がん性が見つかった。慌てたブラックがpropranololを作った」という分かりやすい話になる。だが実際には、pronethalolは最初から、答えであると同時に次の問題でもあった。

効いたから探索が終わったのではない。効いたからこそ、何を改善すれば薬になるのかを、より厳密に問えるようになった。

3. 一つの化合物の背後に、269の候補

pronethalolを合成したStephensonは、1960年ごろにICIを離れた。その後、医薬化学を率いたのがA. F. “Bert” Crowtherだった。

ブラックは後年、Crowtherが医薬化学開発を主導したと明記している。Crowther一人がすべての化合物を合成したわけではない。R. Howe、L. H. Smithらが特許と構造活性の研究を進め、化学者たちが多数の類縁体を作った。

薬理側では、新しい化合物が届くたびに、β反応をどれほど遮断するか、作用はどれほど続くか、自ら刺激しないか、毒性との幅はどれほどあるかを比べる必要があった。

1962年初めにはR. G. Shanksがチームへ加わった。Shanksはのちに薬理側でβ遮断薬の比較と開発を担う中心人物になる。W. A. M. Duncanは、血液や組織の中にpronethalolがどれほど存在するかを測る方法に取り組んだ。

この測定には別の意味があった。

薬の作用が弱くなったとき、それは受容体への力が弱いからなのか。体から早く消えたからなのか。特定の組織へ偏って分布したからなのか。作用だけを見ていては、その違いを分けられない。Duncanらの定量は、薬理効果を体内での存在量と結びつける仕事だった。

化学者が構造を変える。薬理学者が心拍や収縮への作用を測る。生化学側が血液と組織の濃度を測る。結果が化学へ戻り、次の構造が作られる。

QuirkeがICIの研究報告から示したところでは、1962年11月までに評価された化合物は269に達していた。そのほとんどは、pronethalolのナフタレン、フェニル、複素環の部分を変えた類縁体だった。

269という数字を、努力の大きさを誇るためだけに使うべきではない。

重要なのは、それだけ作っても、何をもって「最良」とするかが簡単ではなかったことだ。活性が強ければよいのか。毒性が低ければよいのか。脳へ入りにくければよいのか。作用が長ければよいのか。候補には、それぞれ違う長所と欠点があった。

その中でICI 45,520は、pronethalolより10〜20倍強いβ遮断活性を示し、遮断量と毒性量の幅もより良好だったと、QuirkeはICI記録から整理している。

これが、のちのpropranololである。

ただし、ここを「269番目に正解が出た瞬間」と描くことはできない。化合物番号は試行順の物語ではなく、45,520を誰が一人で最終選択したかを示す会議記録も確認できていない。

1962年の時点で言えるのは、45,520がBlack在籍中に有望な候補となっていたこと。そして、その候補を薬へ育てる仕事は、まだ終わっていなかったことである。

4. マウスの胸腺に現れた警告

1963年、pronethalolはAlderlinとして導入された。

同じ年の11月、二つの報告がほぼ同時に医学誌へ現れた。一つは、pronethalolを狭心症患者へ用いた臨床研究。もう一つは、動物実験で見つかった発がん性についての短い報告だった。

連日投与されたマウスに悪性腫瘍が現れ、その中心は胸腺リンパ肉腫だった。後の比較論文によれば、腫瘍は連続投与の10週以降に現れ始めた。

これは、ヒトでpronethalolががんを起こしたという報告ではない。マウスで得られた所見であり、種を越えて同じ危険をそのまま断定することはできない。

それでも、長期に使う心血管薬の候補としては、無視できない警告だった。

pronethalolは、β遮断が人で意味を持つ可能性を示していた。その同じ時期に、継続使用を難しくする所見も突きつけた。成功と失敗が、同じ化合物の中に並んだのである。

マウスの腫瘍所見によりpronethalolの使用は制限され、やがてpropranololへ置き換えられていく。だが、正確にどの日、どの国で、誰が撤退を決裁したのかは、今回確認できる資料からは固定できない。

そして何より、45,520はこの警告の後に突然作られたのではない。

発がん性の報告より前に、ICIではすでに多数の類縁体が評価され、45,520は有望候補になっていた。腫瘍所見はpropranolol探索の出発点ではなく、pronethalolでは進めないことを決定的にした出来事だった。

失敗が新しい仮説を生んだのではない。

失敗が、すでに進んでいた探索の中で、どの条件を絶対に譲れないかをはっきりさせた。

5. 何を強くするかではなく、何を許さないか

propranololが残った理由を、活性が強かったから、だけで説明すると、ICIチームの判断の半分しか見えない。

Black、Duncan、Shanksがまとめた1965年の比較研究では、propranololはpronethalolより強いβ遮断作用を示した。同じ程度の遮断を得るのに、より少ない量で済む。さらに、比較された試験条件でpropranololは内因性交感神経刺激様作用を示さなかった。

pronethalolでは、動物での中枢症状とマウスの腫瘍が問題になった。propranololの長期マウス試験では、18か月の連日投与で同じ胸腺腫瘍は確認されなかった。

もちろん、これはpropranololが「あらゆる毒性を持たない完全に安全な薬」だったことを意味しない。薬は、別の作用や別の患者背景による限界を持ちうる。ここで比較できるのは、pronethalolで問題になった特定の性質に対し、propranololがどこまで改善していたかである。

ICIの探索は、propranololが見つかった時点でも終わらなかった。

後に有力視された類縁体の一つに、ICI 45,763がある。Crowther、L. H. Smith、T. M. Woodらが進めたphenoxypropanolamine系列から選ばれた化合物だった。しかし、後の比較では小さな刺激作用が認められた。

ここには時系列上の注意がいる。45,763についての薬理報告はpropranolol速報より後であり、45,520と45,763が1962年の一度の会議で向かい合った、という記録はない。だから、二つの候補の最終決戦を再現することはできない。

それでも45,763は、ICIチームが何を基準にしたかを照らしている。

活性があるだけでは足りない。強いだけでも足りない。受容体を遮断する薬が、自ら受容体を刺激する性質をどこまで残すのか。DCIからpronethalol、さらに後の候補比較まで、「刺激せずに遮断する」という基準は繰り返し問われた。

創薬の判断は、最も派手な数字を持つ化合物を選ぶことではない。

この病気に使う薬として、何を許さないかを決めることでもある。

45,520がpropranololとして残った意味は、単にβ遮断活性が強かったことではない。pronethalolが示した原理を保ちながら、その不完全さを一つずつ減らし、チームが守ろうとした基準に近づいたことにある。

6. propranololは誰の薬だったのか

1964年、propranololを新しいβ受容体遮断薬として知らせる短い論文が発表された。

著者欄には、James Blackだけでなく、A. F. Crowther、R. G. Shanks、L. H. Smith、A. C. Dornhorstの名が並ぶ。翌年のpronethalolとの詳細比較には、Black、W. A. M. Duncan、Shanksが名を連ねた。

著者名だけで、誰がどの実験を何時間担当し、誰が最終決裁権を持ったかまでは分からない。だが少なくとも、propranololを一人の手から出てきた薬として語れないことは分かる。

ブラックは、狭心症を心筋酸素需要の問題へ翻訳し、β受容体を遮断する研究計画と測定系を作った。Stephensonは最初の臨床候補pronethalolを合成した。Crowtherは医薬化学の探索を率い、Smith、Howeらの化学者と多数の類縁体を展開した。Shanksは薬理比較と開発を担い、Duncanは血液と組織の中の薬を測った。Dornhorstら臨床家は、企業内の測定を患者での問いへつないだ。ICIの毒性、医学、開発部門は、安全性と導入の仕事を引き継いだ。

この分業を強調することは、ブラックの功績を小さくすることではない。

彼の独自性は、すべてを自分で作ったことではなく、何を解くべきかを定め、異なる専門の結果が同じ問いへ戻ってくる仕組みを作ったことにある。逆に、チームの存在だけを強調してBlackを消せば、なぜこの探索がこの基準を持ったのかが見えなくなる。

propranololは、Blackの問いとICIチームの反復が接続した薬だった。

しかも、その完成は一つの瞬間ではない。45,520が有望候補になった時点。臨床へ進んだ時点。pronethalolとの比較がまとまった時点。安全性資料が積み上がった時点。Inderalとして導入された時点。それぞれが、別の人と部門による「薬になる」過程だった。

1964年、BlackはICIを離れ、Smith Kline & Frenchへ移った。

この移籍より前、BlackはGlasgowで外科医Adam N. Smith、E. W. Fisherと、5-HTやその前駆体が胃酸分泌に及ぼす作用を研究し、1957年以降に成果を公刊していた。これはH2受容体を発見した研究ではないが、心臓とは別に、胃酸分泌の問いへ接していたことを示す。

Blackは後年、H2 antagonistを探す計画は期間も成果も読めない研究であり、その資金を得るには別の製薬会社へ移る必要があった、と振り返っている。1964年当時の退職書簡や会議の逐語記録ではなく、後年の本人回想である。したがって、ICIが一度の会議で計画を拒絶し、それだけを理由にBlackが辞めた、とまでは言えない。

心臓で確かめた「受容体を遮断して問いを解く」という方法を、胃酸分泌の問題へどう接続したのか。その選択は、propranololの物語とは違う種類の賭けになる。

次回は、心臓で使った「受容体を遮断して問いを解く」という方法が、なぜ胃へ向かったのかをたどる。

完成したβ遮断薬が高血圧治療でどう位置づけを変えたかは、既存記事でたどれます。

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『新薬という奇跡 成功率0.1%の探求』は、propranololを含む複数の薬が、どのような試行錯誤を経て医薬品になったのかをたどる創薬史です。pronethalolのような不完全な候補が、次の分子を選ぶ条件へ変わる過程をさらに知りたい方に向いています。

※本稿は薬の開発史を扱うもので、個別の診断・治療・服薬判断を示すものではありません。

写真:Wellcome Library, London / Wellcome Foundation Archive(原画像CC BY 4.0)。ヤクマニドットコムがトリミング・色調整・図形追加を実施。

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