なぜ今、ジェームズ・ブラックなのか
薬の歴史は、完成品から逆向きに語られやすい。何年に発売され、どの病気に効き、従来薬より何が優れていたのか。そこだけをたどれば、医学は効く薬が順番に棚へ並んでいく歴史に見える。
しかし、薬がまだ存在しない時点に立てば、景色はまるで違う。
どの病気を問題にするのか。病気の何を変えれば患者を助けられるのか。目の前にある理論を信じるのか、疑うのか。大学に残るのか、企業へ移るのか。最初の候補が失敗したとき、研究計画そのものを捨てるのか、それとも失敗の中から次の分子へ残す条件を見つけるのか。
完成した薬の効能だけでは、その選択の連鎖が見えない。そしてヤクマニが薬の歴史で追いたいのは、まさにその見えにくい部分である。
ジェームズ・ブラックは、この問いを追うのに格好の人物だ。彼の仕事からは、心臓のβ受容体を遮断する薬と、胃のH2受容体を遮断する薬という、二つの大きな創薬系列が生まれた。のちに彼はノーベル生理学・医学賞を受ける。結果だけを並べれば、一人の天才が標的を見抜き、二種類の画期的新薬を発明した物語になる。
だが、その筋書きでは重要なものが消える。
ブラックの前には、組織の反応をαとβに分けて考えたRaymond P. Ahlquistがいた。心臓へ酸素を増やそうとしたGeorge SmithとD. A. Lawsonの実験があった。大学で問いを育てる環境があり、企業には化合物を合成し、作用を測り、失敗を次の候補へ返す人と設備があった。胃酸研究でも、臨床上の困りごと、先行研究、共同研究者、化学と薬理の往復が必要になる。ブラックの独自性は、誰もいない場所から薬を取り出したことではない。散らばっていた知識と能力を、試すことのできる問いへ組み直したことにある。
β遮断薬とH2受容体拮抗薬は、心臓と胃という別々の領域の薬である。それでも二系列を一人の歩みとして見ると、共通する型が浮かぶ。完成薬を先に探すのではなく、まず臨床の問題を生理学的な問いへ翻訳する。受容体という考えを、化合物を残すか捨てるか判断できる測定へ変える。そして、最初の答えが不完全でも、失敗を計画へ戻して探索を続ける。
このシリーズでは、一人の人物を一つの長い成功談に圧縮しない。各回を一つの局面に絞り、ブラックの問いがどこで生まれ、他者の研究とどう接続し、失敗によってどう変わったかを追う。まず狭心症をめぐる問題設定が「酸素を増やす」から「心臓の仕事を減らす」へ反転し、ICIで研究計画になるまで。次に、最初の候補pronethalolの限界からpropranololへ進む判断。第3回では心臓の系列を離れ、胃酸分泌の問いがH2受容体拮抗薬へ育つ過程を見る。第4回ではWellcomeでの仕事へ進み、二つの系列を貫いた創薬思想を振り返る。β遮断薬が臨床でその後何を変えたかは既存記事へ委ねる。第1回では、H2の物語を先取りしない。二つの系列を比較できるようにするためにも、まず最初の問いが形になる瞬間を丁寧に見る必要がある。
だから今回の終点は、β遮断薬の完成でも、ノーベル賞でもない。
まだ薬がない時代に、狭心症へ向けられていた問いの矢印が反転し、失敗を比較できる企業研究の計画へ変わるところまでである。
酸素が足りないなら、血を増やす
安定狭心症の発作は、労作、情動的なストレス、寒冷など、心臓の仕事を増やす状況で誘発されることがある。心拍が速くなり、収縮が強くなれば、心筋が消費する酸素も増える。一方、冠動脈が狭くなっていれば、その需要に供給が追いつかない。この一般的な関係は、現在のNICEの安定狭心症資料や循環器領域の査読総説でも説明されている。
不足しているのは酸素である。だから、供給を増やす。
1950年代の狭心症研究では、冠血管を広げる薬への期待があった。ただし、この方向だけが医学界の唯一の考えだった、と単純化するのは正確ではない。さまざまな薬理学的介入が試され、狭心症の理解そのものも変化の途中にあった。それでも、冠血流を増やす発想が主要な研究方向の一つだった。
問題は、動物実験で冠血管を広げるように見えた候補が、臨床で期待どおりの結果を示すとは限らなかったことだった。
ブラックは後年の回想で、この「実験では有望に見えるのに、患者ではうまくいかない」というずれを振り返っている。昔の研究者が病態を理解していなかったという話ではない。供給を増やす理屈は通っている。だが、冠動脈の一部が狭くなった心臓で、必要な場所へ選択的に血流を増やすことは、理屈ほど簡単ではなかった。
ブラック自身が狭心症と突然死へ強い関心を持った背景には、個人的な経験もあった。彼は後年、父が狭心症を患い、自分が医学生だった時期に急死したことを記している。
ただし、「父の死をきっかけにβ遮断薬を発明した」と一本の因果で語るべきではない。それは覚えやすいが、研究の成立条件を消してしまう。父の病気は関心の一因だった。そこへ臨床教育、Glasgowの研究環境、共同研究、先行する受容体理論が重なっていく。
George Smithの高圧酸素実験
1950年、ブラックはUniversity of Glasgow Veterinary Schoolへ移り、生理学の研究環境を整えた。そこで心血管研究をともにした人物の一人が、心臓外科医George Smithだった。
Smithは、傷害を受けた心臓へ酸素をより多く届けることを考えていた。D. A. Lawsonとの1958年の論文は、実験的に冠動脈を閉塞した状況で、高圧下の酸素投与が与える影響を扱っている。論文の著者はSmith一人ではない。Lawsonを消して「Smithの実験」とだけ呼べば、ここでも共同研究の歴史を一人へ圧縮することになる。
この実験の細かな条件や群ごとの数字については、公開前に原著全文との照合が必要である。したがって本稿では、後年のブラックがこの研究をどう受け止めたかと、1958年の原著が存在するという事実を分けて扱う。
ブラックは晩年の回想で、Smithらの高圧酸素実験について具体的な数字を挙げた。そして、高圧環境で増える血中酸素量を自分で計算し、その増加は10〜15%ほどにすぎないと考えた、と述べている。
ここから先が、ブラック本人の回想に残された問いの反転である。
それほど小さな供給増加で心臓が守られるのなら、供給を増やす代わりに、心臓が必要とする酸素を10〜15%ほど減らしてもよいのではないか――そう考えたと、ブラックは後年振り返っている。
これはSmithとLawsonがβ遮断薬を発明した、という意味ではない。二人の研究は供給を増やす方向を向いていた。だが、その結果はブラックに、同じ問題を需要側から見る比較材料を与えた。
Glasgowの同じ研究環境では、もう一つ、後のブラックの仕事へ続く研究も進んでいた。外科医Adam N. Smith、E. W. Fisher、ブラックは、胃酸分泌に対する5-HTやその前駆体の作用を研究し、1957年以降に成果を公刊している。
Adam Smithは、のちのH2受容体やシメチジンをこの時点で発明した人物ではない。第1回の心臓の物語を動かした中心人物でもない。ただ、Glasgowの研究室には、心臓の酸素需給と胃酸分泌という、後にブラックの二つの大きな研究計画へ続く問いが同時に出入りしていた。
ブラックは問いを需要側へ反転する
心臓の酸素需要を下げる、と言うだけなら簡単である。問題は、どうやって下げるかだった。
心拍数を落とし、収縮の強さを抑えれば、心筋の仕事量と酸素需要を下げる方向へ働く。この需要側の関係は、現在のAHA/ACC慢性冠疾患ガイドラインと抗狭心症作用の査読総説で確認できる。ただし心臓は全身へ血液を送り続けなければならない。働きを止めればよいわけではなく、過剰な刺激を選んで弱める必要があった。
ブラックが注目したのは、交感神経とアドレナリン様物質が心臓を速く、強く動かす作用だった。運動だけでなく情動的な緊張でも狭心症発作が起こりうることは、血管だけでなく、心臓を駆動する刺激へ目を向ける理由になった。
ブラックがある日、研究室で突然すべてを理解したことを示す記録はない。正確な日付も、決定的な会話も分からない。
医学史家Viviane Quirkeは、ブラックの回想と企業記録を用い、この問いが複数の要素から形成された過程を描いている。父の死。冠拡張薬の臨床的な限界。George Smithらの供給増加実験。ブラック自身の薬理学的観察。そして、心臓への交感神経作用を分類できる先行理論。
つまり「供給から需要へ」は、一発のひらめきというより、別々の経験が一つの研究問題へ収束した結果と見るほうがよい。
ブラックの重要な選択は、病気に効きそうな物質を手当たり次第に探すことではなかった。まず、狭心症という臨床上の困りごとを、心筋酸素需要という操作可能な問題に置き換えた。そのうえで、心臓を刺激する作用の一部を選択的に遮断できないか、と問うた。
しかし「交感神経の働きを抑える」という表現だけでは、まだ研究計画にならない。
どの作用を、どの受容体で、どう測るのか。
その言葉を与えたのは、ブラックではなかった。
Ahlquistが分けたαとβ
1948年、米国の薬理学者Raymond P. Ahlquist(レイモンド・P・アールクイスト)は、複数の交感神経作動性アミンがさまざまな組織に及ぼす作用の強さを比較し、受容体をαとβの二群として考える分類を提案した。
これはβ遮断薬の設計図ではない。Ahlquistがプロプラノロールを発明したわけでもない。彼が示したのは、同じ「アドレナリン様作用」に見える反応を一つの箱に入れず、薬物への反応の違いから二種類の受容体として説明する枠組みだった。
ブラックは後年、Ahlquistの仕事を1948年の発表直後に直接読んだのではなく、1954年版の薬理学教科書に収められた章を通じて知ったと振り返っている。さらに、この二受容体理論がなければ、1958年に心筋酸素需要を下げる研究を始めなかっただろう、とまで評価した。
これは本人による後年の自己評価である。発見当時の日記ではないし、研究の唯一の原因を証明するものでもない。それでも、ブラックが自分の研究思想の中でAhlquistの分類をどれほど重要と見ていたかを示す証言ではある。
Ahlquistの分類によって、ブラックの問いは少し具体的になった。
心臓を刺激する交感神経の反応にβ受容体が関係するのなら、その反応を遮断する物質を探せば、心拍や収縮の過剰な増加を抑えられるかもしれない。そうなれば、心筋の酸素需要を下げられる可能性がある。
だが、理論は薬ではない。
受容体を二種類に分ける説明があっても、目的の反応だけを十分に遮断できる化合物が必要になる。その化合物が自ら心臓を刺激してしまわないことも、安全に使えることも確かめなければならない。さらに、微妙な作用の違いを測り分ける評価系が要る。
ここでブラックの前に、大学研究室の限界が現れた。
問いはあった。理論もあった。しかし、化合物を継続的に合成し、薬理試験を繰り返し、候補を選び直すには、別の規模の組織が必要だった。
助成を求めた訪問が転職話になる
ブラックは最初から、製薬企業へ転職して完成薬を作ろうとしていたわけではない。
本人の回想と、ICIの企業記録を調べたQuirkeの研究によれば、ブラックがICIへ接触した当初の目的は研究助成を得ることだった。Glasgowで形成した計画を進めるには、化合物合成と探索を支える資源が足りなかった。
地域のICI医薬部門担当者とのつながりから訪問が設定され、生物研究を率いる立場にあったGarnet Daveyが計画を知った。そして、助成ではなくICIで働く職が提示された。
どんな言葉が交わされたのか。給与、職位、研究の自由が、ブラックの判断にどの程度影響したのか。そこまでは確認できない。ここで魅力的な会話を作れば、読み物としては滑らかになる。しかし、それは史料ではなく創作である。
確認できるのは、助成を求めた接触が雇用の提案へ変わり、ブラックがそれを受けたことだ。1958年7月、彼はICIのAlderley Parkへ移った。
この移動を「大学では何もできず、企業がすべてを与えた」と語るのも正しくない。ブラックは臨床問題、薬理学的な問い、受容体遮断という研究方向を持ち込んだ。一方のICIも、空っぽの工場ではなかった。ブラックが入る前から、循環器領域の研究、化学者による合成、薬理評価、獣医事業との接点を持っていた。
問いだけでは薬を作れない。だが、設備と人員だけでも、どの問題をどう測るかがなければ探索は散らばる。ブラックのICI移籍は、完成した設計を会社へ持ち込んだ出来事ではなく、臨床から生まれた問いと企業研究の能力が接続された出来事だった。
このとき、Glasgowで並んでいたもう一つの問い――Adam SmithやFisherと取り組んだ胃酸分泌――は、いったん物語の後ろへ退く。ブラックがまず企業で試そうとしたのは、心臓のβ反応を遮断し、酸素需要を下げる計画だった。
問いが候補化合物を選別する計画になる
ICIへ移っただけでは、まだ薬は生まれない。
ブラックが必要としたのは、「β受容体を遮断する」という抽象的な目標を、化合物を残すか捨てるか判断できる測定へ変えることだった。創薬では、多数の候補を一定の基準で調べて選別する工程をscreening(スクリーニング)と呼ぶ。
QuirkeがICIの企業記録から示したところでは、1959年初めの研究報告には、心臓の交感神経応答を遮断する候補化合物の探索が明示されている。ただし、私たちが確認しているのはQuirkeの査読済み歴史研究を通じた引用であり、ICI原本そのものではない。
Blackの回想と、ICI記録を分析したQuirkeによれば、Blackは心拍数と心筋収縮の強さに対する作用を分けて評価するため、乳頭筋を使った測定系を設計した。ここで重要なのは装置の細部ではなく、問いが選別基準へ変わったことだ。
心臓のβ反応を遮断できるか。
化合物自身が望ましくない刺激を加えないか。
心拍や収縮に及ぼす作用を、比較できる形で測れるか。
病気についての考えが、測定項目になる。測定項目が、化学者へ次の化合物を求める条件になる。新しい化合物の結果が、また薬理の問いを修正する。
ここまで来て初めて、「心臓の仕事を減らす」という発想は、企業の中で反復できるスクリーニング計画になった。
それをブラック一人の仕事と呼ぶことはできない。George SmithとD. A. Lawsonの実験が、供給側から考える比較材料を作った。Ahlquistがαとβの分類を与えた。Daveyが助成相談を組織内の研究職へ変えた。ICIには化学と薬理を往復する人員と設備があった。ブラックの役割は、それらを狭心症という臨床問題へ接続し、測れる問いへ変えたことにある。
この時点では、成功はまだ約束されていない。
受容体という標的が正しくても、最初に見つかる化合物が安全で、患者に使える薬とは限らない。作用が足りないかもしれない。標的を遮断しながら、自ら別の刺激を加えるかもしれない。予想しなかった毒性が現れるかもしれない。
1950年代の終わり、ICIで動き始めたのは、完成薬の製造ではなかった。
失敗を比較し、次の分子へ返すための計画だった。
では、最初の有力候補が薬としての限界を見せたとき、ICIの化学者、薬理学者、臨床家たちは何を残し、何を捨てたのか。
その判断が、次の局面でpronethalolからpropranololへ続いていく。
完成したβ遮断薬が高血圧治療でどう位置づけを変えたかは、既存記事でたどれます。
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β遮断薬を含む創薬の歴史を、成功だけでなく、スクリーニングや試行錯誤、研究を薬へ育てる難しさから読みたい人へ。第10章ではジェームズ・ブラックとβ遮断薬の開発も扱われます。
※本稿は薬の開発史を扱うもので、個別の診断・治療・服薬判断を示すものではありません。
画像:Sir James Black, Wellcome Library, London / Wellcome Foundation Archive(CC BY 4.0)。ヤクマニドットコムがトリミング・色調整・図形追加。原画像



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