ジェームズ・ブラックの名は、二つの薬と並べて語られる。
心臓の仕事を減らすβ遮断薬propranolol。そして、胃酸分泌を抑えるH2受容体拮抗薬cimetidineである。
このシリーズでは、完成した薬から歴史を逆算しなかった。
第1回では、狭心症の心臓へ酸素を足すという発想から、心臓が酸素を使う仕事そのものを減らす問いへの転換を追った。第2回では、最初の候補pronethalolの不完全さを、propranololを選ぶ基準へ変えたチームの判断を見た。第3回では、約200の化合物が有用な手掛かりを示さない時、分子だけでなく測り方を疑い、burimamideによって見えないH2受容体を薬理学的に定義するところまで進んだ。
では、ブラックの方法とは何だったのか。
「標的を決めて、そこへ合う分子を合理的に設計する」。後世の短い説明は、そうまとめる。だが、これまで見てきた現場はもっと不格好だった。最初の化合物は不完全で、測定は弱い作用を見落とし、会社は成果のない時間を引き受けた。化学者、薬理学者、臨床家の誰か一人が答えを持っていたわけではない。
ブラックが繰り返したのは、正解の分子を予言することではなかった。
解くべき問題を選び、その問題を判別できる測定系を作り、化学者が作った分子の答えを次の設計へ戻す。問い、化学、測定を、小さなチームの中で何度も往復させることだった。
二つの薬を生んだ後、ブラックには別の難問が残った。
この方法は、彼が直接会話できる小さなチームでしか動かないのか。それとも、多数の研究者と計画を抱える大きな製薬研究組織へ移せるのか。
最終話の主役は、新しい大ヒット薬ではない。
一つの創薬方法を、組織の形にしようとした試みである。
1. 産業を離れれば、自由になれるのか
1973年、ブラックはSmith Kline & Frenchを離れ、University College London、UCLの薬理学教授になった。
H2受容体拮抗薬の計画は、burimamideで受容体の存在を示し、経口活性を改善したmetiamideへ進んでいた。だが、後に発売されるcimetidineの開発を最後まで率いる前に、ブラックは大学へ移った。
企業研究には、期限、予算、製品化という圧力がある。大学へ移れば、すぐ商品にならない問いを追いやすくなる。少なくとも当時のブラックは、そこに可能性を見ていた。
ところがブラックが大学で実現したかったのは、企業研究と反対の仕事ではなかった。
彼は、medicinal chemistryとbioassayの結び付きを、大学でも一つの知的な営みとして成立させようとした。化学者が分子を作り、薬理学者が生体の反応を測り、その結果を次の分子へ戻す。ICIとSK&Fで経験した往復を、特定製品の開発手順ではなく、教え、研究できる方法にしたかった。
教育についても、薬の名前を種類ごとに覚える授業ではなく、化学的な原理、生体内の分類、数理的なモデルから薬理学を組み立てたいと考えた。
しかし本人は後年、二つの野心をどちらも達成できなかったと振り返っている。
本人の後年回想によれば、UCLで提案したmedicinal chemistryを含む研究計画は、審査で輪郭が曖昧で費用がかかりすぎると見られ、十分な支援を得られなかった。教育案も、当時のカリキュラムへ組み込むには難しかった。medicinal chemistryの学部課程を立ち上げる助けはできたが、化学者と日々共同する研究環境までは作れなかった。
これは大学一般に化学研究の資源がない、という意味ではない。ブラックが当時のUCLで作ろうとした特定の計画では、構想に必要な支援を確保できなかったのである。
ブラックが欲しかったのは、その中間だった。
答えの見えない問いへ進める自由と、medicinal chemistryとbioassayを近い距離で往復させる資源である。
UCLで約4年を過ごした頃、薬理学者John Vaneから誘いが来た。行き先はWellcome Foundationの研究所だった。
ブラックは、もう一度企業へ戻ることを選んだ。
2. 図書館を、実験室にする
1978年、ブラックはWellcomeの世界的な治療研究を担う責任者として、英国Beckenhamの研究所へ移った。
役職だけを見れば、これまでよりはるかに大きな権限を得たように見える。
ICIでは一つのβ遮断薬計画、SK&Fでは一つのH2計画を、小さなチームで進めた。Wellcomeでは、すでに多数の研究計画が動き、各分野に責任者がいる。ブラックの仕事は、自分で一つの化合物系列を追うことより、組織全体の研究を見渡すことになった。
だが彼は、管理職用の遠い部屋だけを選ばなかった。
UCLからブラックに同行した薬理学者Terry Kenakinの後年の回想によれば、研究所の旧図書館がExploratory Research Laboratoryへ改装された。書棚が置かれていた場所にbioassayの設備を入れ、ブラックは自分のオフィスを実験室の隣に置くよう求めた。
象徴的な場面である。
本を捨てて実験を重んじた、という意味ではない。ブラックは理論と歴史をよく読んだ。ただ、オフィスを実験室の隣へ置いたという配置からは、研究を指揮する人と測定の現場を近づけようとした姿勢が読み取れる。
濃度を変える。組織が反応する。予想した曲線と違う。その違いを見ながら、次に何を測るか決める。
少なくとも彼が各計画へ向けた質問を見ると、創薬の判断を報告書の結論だけで終わらせず、測定系が何を見分け、何を見落とすかまで確かめようとしていたことが分かる。
ブラックはWellcomeの各研究計画を見直し始めた。
ここで彼が持ち込んだのは、新薬のリストではない。
質問だった。
3. 四つの質問が、研究計画を裸にする
Kenakinの回想には、ブラックが計画責任者へ投げた質問が残っている。
何を測る装置、あるいはassayを持っているのか。それは候補を判別でき、頑健で、目的に特異的なのか。
標的となるleadはあるのか。化学は、出発点になる分子を提供しているのか。
研究を動かしているのは化学者か、生物学者か。それとも両者の協働なのか。
合成途中に生じるすべての中間体まで、目的もなく測ってはいないか。事前に合意した問いへ答える分子を選び、資源を集中できているか。
どれも派手な質問ではない。
だが、研究計画の説明を難しくする質問である。
「この病気は重要です」「この分子は新しいです」「この技術には将来性があります」という説明だけでは通らない。どの結果なら次へ進み、どの結果なら仮説を捨てるのか。その判断を、いま使っている測定系が本当に支えられるのかを示さなければならない。
H2計画で約200の化合物が手掛かりを示さなかった時、問題は化学だけではなかった。弱い部分作動薬を拾えないassayにも問題があった。ブラックは、その経験を組織の審査原理へ広げようとしたのである。
しかし、小チームで毎日交わす問いと、大組織で上位責任者が投げる問いは、同じ響き方をしない。
小チームなら、測定の欠点を指摘することは次の実験を一緒に作る行為になる。大組織では、それまでの計画、予算、専門性を否定する査定にも聞こえる。
Kenakinによれば、数か月のうちにブラックは一部のproject headから不評を買った。
ここを「合理的な改革者と、古い研究者の戦い」にしてはいけない。
Wellcomeの研究者が非合理的だったと示す資料はない。既存計画には、それぞれの病気、技術、開発段階がある。Blackの方法も、すべての研究へ同じ形で適用できると証明されていたわけではない。
さらに、製薬研究の組織には、臨床上の必要性、安全性、製造、期間、市場という判断もある。assayだけで計画の価値がすべて決まるわけではない。
ブラックの質問は研究を鋭くした。同時に、その鋭さは、研究者と管理者の間に摩擦を作った。
ここから見えるのは、方法を組織へ移す時には、問いの内容だけでなく、その問いを誰が、どの距離から投げるかも結果を左右しうるということである。
4. 「効いた」を、一つの数字にしない
Wellcome時代のブラックを、組織改革だけで語るのも正確ではない。
彼は実験室の近くで、薬が受容体へ結合した後、組織の反応としてどう現れるかを考え続けた。
薬理学では、同じ薬でも組織によって最大反応が違うことがある。薬側の作用特性だけでなく、受容体の数、細胞内の伝達、測定している組織の性質によって、濃度と効果の曲線は変わる。
つまり、「この薬は強い」という一言には、少なくとも二つの問題が混ざる。
薬が受容体へ働く側の性質。そして、その作用を実験系がどれほど大きな反応へ変換するのか。
1983年、ブラックとPaul Leffは、agonistの作用を扱うoperational modelを発表した。
これは薬を自動的に発見する公式ではない。分子の構造を入力すれば新薬が出てくるものでもない。
狙いは、受容体への作用と、そこから観察される反応までの過程を分けて考えることだった。薬側の作用特性と、測定している系が反応へ変換・増幅する性質を、一つのモデルの中で整理しようとした。
第1回でブラックが見たのは、運動する心臓の酸素消費だった。第2回では、pronethalolとpropranololを複数の測定で比較した。第3回では、古いassayが隠していた約5%の抑制を、新しい測り方で拾った。
operational modelは、それらと無関係な晩年の数学趣味ではない。
「何を測れば、分子の違いを正しく比べられるか」という問いを、さらに一般化したものだった。
この仕事はブラック一人のものでもない。Leffとの共同研究だった。
大きな研究部門の責任者になった時期にも、ブラックは濃度反応曲線の分析へ取り組んでいた。
薬の濃度、受容体への作用、観察される組織反応の関係を定量的なモデルで解釈し、仮説を検証する。ここでいうanalytical pharmacologyとは、そのような仕事を指す。
5. 会社を変えるのではなく、研究の単位を変える
Wellcomeでの約6年間を、「改革の成功」か「対立による失敗」かの二択で判定することはできない。
BlackはExploratory Research Laboratoryを作り、若い研究者と分析薬理の仕事を進めた。operational modelという、その後の受容体薬理で広く使われる考え方も、この時期に形になった。後年の伝記的回顧では、Wellcome在籍中に少なくとも三つの化合物を開発段階へ進めたともされる。現段階の資料では薬名や承認まで対応づけられないが、管理上の摩擦だけでなく、具体的な科学的前進もあった。
一方、後年の略歴は、Wellcomeが伝統的な組織であり、BlackとVaneの関係が悪化したと記している。だが、二人がどの会議で何を争い、誰が正しかったのかを確定できる同時代記録は、今回確認できていない。
確かなのは、1984年に次の形が選ばれたことだ。
Wellcomeは、King’s College Hospital Medical Schoolの中に、小さな独立研究単位を設けて資金を出した。ブラックはそこで、analytical pharmacologyの教授となった。
大学へ戻った、とだけ言うと、1973年のUCLと同じに見える。しかし今度は、企業か大学かの一方を選んだのではない。
大学の中にありながら、Wellcomeが研究資源を支える。大きな研究部門全体を管理する代わりに、化学、薬理、数理を近い距離で動かせる小さな単位を持つ。
ブラックは大きな研究部門を管理する役割から、より小さな独立研究単位へ移った。
これは大組織を変えられなかった敗走とも、理想の研究所を完成させた勝利とも言い切れない。
本稿の見立てでは、この形の変化は、H2計画で測定系を変えた時と重なって見える。
結果が得られない時、同じ分子を作り続けるのではなく、測り方を変える。確認できる事実として、1984年には大きな研究部門の管理から、Wellcomeが資金を出すKing’sの小さなunitへ研究の形が変わった。ただし、Wellcome内の摩擦だけがこの移行を直接引き起こしたとまでは断定できない。
結果としてブラックは、組織の規模と研究者同士の距離が異なる環境で、同じ方法を追うことになった。
1985年には、BlackとNorman Shankleyが、摘出したマウスの胃を一つの生理学的単位として胃酸分泌を分析する研究を発表した。これはWellcome在籍中の成果ではなく、King’sのunitへ移った後の仕事である。小さな研究単位で、測定系そのものを作り込む方向が続いたことを示している。
6. 合理的創薬とは、正解を知ることではない
1988年、ブラックはGeorge Hitchings、Gertrude Elionとともにノーベル生理学・医学賞を受けた。
授賞理由は、重要な薬物治療の原理の発見だった。
けれども、このシリーズをノーベル賞で閉じると、歴史は再び一人の天才と二つの成功薬へ縮んでしまう。
propranololには、Raymond Ahlquistの受容体分類、George Smithの心筋酸素研究、ICIの化学・薬理・臨床チームがあった。H2計画には、George PagetとWilliam Duncanの組織的支援、Graham Durant、Robin Ganellin、John Emmettらの化学、Michael Parsonsらの測定があった。
Wellcomeでは、John Vaneの招き、Terry Kenakin、Paul Leffらとの仕事、そして既存計画を背負う多くの研究者との摩擦があった。
ブラックの功績を小さくする必要はない。
ただし、その功績は「一人で薬を設計したこと」より、異なる専門が同じ問いへ答えられる形を作ったことにある。
病気の何を変えるのか。
どの反応なら、その変化を判別できるのか。
不完全な化合物は、次の設計へ何を教えるのか。
結果が出ない時、分子、測定系、研究組織のどれを疑うのか。
合理的創薬という言葉は、ともすれば無駄のない一直線の開発を想像させる。
ブラックの歩いた道は反対だった。
最初の薬は不完全だった。約200の化合物は長く答えを示さなかった。UCLでは構想に必要な支援を確保できず、Wellcomeでは方法を多数の計画へ広げる過程で摩擦が生じた。Wellcome期に三つの化合物が開発段階へ進んだとされる科学的成功はあったが、この物語を三つ目の大ヒット薬の名前で閉じることはできない。
それでも、失敗は空白ではなかった。
pronethalolはpropranololの選択基準になった。弱い部分作動薬はburimamideへの方向標になった。そしてWellcomeでの管理と研究を経た後、仕事の場はKing’sの小さな独立研究単位へ変わった。
ジェームズ・ブラックが残したのは、正解の分子の一覧ではない。
分からないものを、次に測れる問いへ変える方法だった。
薬の歴史を縦にたどると、名前の違う薬が一本につながる。それは、化学構造が似ているからだけではない。同じ人物が、前の失敗から次の問い方を持ち運んだからである。
心臓から胃へ。化合物から測定系へ。小さなチームから大きな会社へ。そして再び、実験台の隣にある小さな部屋へ。
ブラックの物語は、二つの薬で終わらない。
答えが見えない時、何を測り直し、誰と考え、どんな場所を作るか。
その選び方の中に、創薬の歴史は続いている。
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『新薬という奇跡 成功率0.1%の探求』は、創薬を一人のひらめきではなく、失敗、測定、安全性、資金、組織の判断が重なる仕事としてたどる創薬史です。ジェームズ・ブラックの評伝ではありませんが、成功率の低い探索を人と組織がどう続けるのかを、さらに広い歴史の中で読みたい方に向いています。
※本稿は薬の開発史を扱うもので、個別の診断・治療・服薬判断を示すものではありません。
写真:Wellcome Library, London / Wellcome Foundation Archive(原画像、CC BY 4.0)。ヤクマニドットコムがトリミング・色調整・背景拡張・図形追加を実施。


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